冥府

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冥府の戦友と語る

聖籠町苦節四十年の歩み


新潟東港開発の訪れ
(6) 集落移転の交渉開始
(替地集落)
いよいよ集落の移転交渉が始められた。
替地以外のことは別項で記す。
聖籠村が東港開発事業に取り組み、最初の交渉事業である。
ここで特筆しておきたいことがある。
交渉の場についた最初に集落の一致した意識統一の言葉である。

それは「我々は自分達自身の問題であり、他から干渉は受けず、自主的に交渉を進めていく」であった。
要するに関係者から混乱をまねくような意図的な発言は断るということであった。
これには私も同席のとき本間長吉氏より断言された。
この意志の流れは、その後の移転集落も同様の姿勢をもって対応した。
今にして考えれば、極めて有効適切な行動規範であったと考えられる。
替地集落は二十五戸の移転であった。

県が最初に替地集落を対象とした理由は定かではないが、おそらく港湾掘り込みの直近位置にあったからであろう。
替地集落の移転は今後四百二十五戸に関わる試金石でもあったのである。
補償とは公共事業を行う場合における物件に対する常用語となっている。
基本には補償とは原型補償であると役所式に応える。
私は反論した。
単に原型を補償するだけにとどまっては困る。
これから東港関連の補償は補って償うべきであると主張した。

一般行政の中における事務には公共事務と行政事務がある。
公共事業とは場合によっては大半が住民の権利を束縛し規程つけるものであり、行政事務は住民に対するサービス事務である。
従って一般の公共事業を施行することは住民の権利を束縛(買収事務や命令事務等)をするが、反面住民も受益を享受することにより、その認従性があるものと解される。
しかし、この事業はこれに応じたことにより、そこに企業が立地をして、生産活動をしてそこから利潤を得てゆくことになる。

従って事業のための協力者に対して事前にその利潤の一部を先行還元すべきであると思う。
その点、補って償うという意味であり、一般公共事業とは異なる点であり、今後の事業を進める方針の中に入れたいただきたいと主張した。
加えて関係者の多くは移転するまでの期間、並びにその後の生活環境の変化、生活設計等のことで、どのように対応べきか等、精神的な苦悩をかかえる当事者の立場になれば容易なことではない。
一般行政の枠では処理出来ないことである。
それにしても県当局も適材適所有能な人材を配置処理されて事業の性格をよく理解して対応をしてくださったと評価したい。

この種の事業は人間関係の信頼と意志の疎通がなければ成功成就しない。
昼夜を問わずにお邪魔をして、無駄話をしても無駄にならないのだ。
あの狭い公会堂で薪ストーブで煙にむせびながら交渉を進めてゆく。
交渉にはまず補償物件の把握である。
これがための立ち入り調査の諾否を決めなければならない。
集落の皆さんは事業そのものに反対している人はいなかった。
後のことになるが、反対もしないが、賛成もしない、となると解決にならない。
機を逸してしまった例がある。

立ち入り調査によって土地(宅地、農地)や各種物件(家屋、作業場、その他あらゆる物件)をそれぞれに査定をする。
予め補償については基準を定めているが、個々のことになると予期をしない問題点が出てくる。
また公共物件になると、公会堂、神社、水道等は集落全体の合意を必要とする。
そして苦労したのは移転場所をどこにするかということが難しかった。
替地の場合、現位置を選び、合意を得た。
替地集落の人達は終始事を荒立てる人もなく、常に紳士的に交渉を重ねられた。
結果は二五戸のうち、大夫浜に一戸、次第浜に一戸、他は現在の外畑に移転をした。
現在の位置は、新発田川と角庵川に挟まれた限定された土地条件の面積であった。

ところで移転開始の直前、昭和四十一年、加治川の破堤水害のため、代替地が水没するという災害があった。
急遽全宅地に約一米平均の盛土をして改修した。
移転開始前のことが幸いであった。
昭和四十二年にも同様に連年水害があった。
この災害は天の啓示かのように積土をしたことが良かった。
最後に残った問題は、神社のことで地元で焼き瓦を主張したが、原型がセメントのために主張は通らなく残念であった。
この結果を振り返ってみると、県も誠意をこめ、村の職員も一生懸命に対応してくれた。
何よりも集落の人達のご協力に感謝したい。

あの位置は交通の利便性をはじめ、良好であったが、立地条件の関係で道路幅も狭く、防災上耐えられないのではないかと交渉不足の嫌いがあった。
後刻、村をして消雪パイプの設備を早急に対応補足をしたが、広場の確保も要請に応え得なくて申し訳ないと後悔している。
後年、角庵川の改修によって、横の道路状況もよくなることで、せめてもの償いと思っていただきたい。


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