冥府

日本陸軍 第二師団 歩兵第十六連隊 新発田 あやめ会 戦記 戦死者名簿 ガダルカナル 雲南 ビルマ ジャワ ノモンハン 遺骨収集 政府派遣

暗黒の孤島に遺骨を求めて



この島で 生きて帰れる   術はなし 兵黙々と壕を掘りいる
     長谷川 榮作 作詞

舌代わり 本書は、私が事務局となり編集をしたところである。
往復の飛行機、ガ島カミンボホテルにおいて綴った。



-ガダルカナル島遺骨収集団派遣の記録



目次

ご挨拶               野田孝次会長、横山三義実行委員長 1
祭祀            祭主 堺 吉嗣(元歩兵十六連隊長) 4
収骨報告          新潟県遺骨収集団長 佐藤 典夫  6
慰霊の言葉         新潟県知事 亘 四郎       8
慰霊の辞          新潟県町村会長 中山 与志夫   9
暗黒の孤島に遺骨を求めて  収骨派遣団員一同         16
収骨報告慰霊祭       慰霊祭委員長 宮川 三四二    36
南十字星の下に       新潟日報社報道記者 山田 一介  38
募金芳名録と終始報告書                    56
あとがき                           61
附録           郷土部隊将兵戦死者名簿




ご挨拶

謹啓、皆様には益々ご健勝にてお過ごしの事とお慶び申し上げます。
このたびガダルカナル島の遺骨収集にあたりましては、絶大なるご協力ご援助を賜りまして誠にありがとうございました。
私共関係者一同衷心より厚く御礼申し上げます。

太平洋戦争有数の激戦地ガダルカナル島には、新発田歩兵第十六連隊の所属した第二師 団の直轄部隊を含め県人2,849柱が、実に二十八年も放置されたままになっていたのです。
当時の状況から止むを得なかったとは申せ、これら戦友の遺体を戦場に放置して転進せねばならなかった私共生還者にとっては、片時も忘れる事の出来ない痛恨事でありました。

政府は、去る昭和三十年一月に運輸省の練習船大成丸をガ島へ寄港させて、現地開発中の原住民が拾い集めて置いた約八五〇体の遺骨を受け取り、あとは長い年月を経過したため、総べて風化して皆無である。従って、これでソロモン群島全部の遺体の収集は完了したと記録されていました。

一昨年秋にソロモン政庁がボーキサイト発掘の国際入札を行った処、三井金属鉱業がレンネル島の権利を手にし、昨年秋ガ島ホニアラに駐在事務所を設けて開発準備中、同社の尾本社長が現地を視察した際に、まだ各地に遺骨が散乱している有様を見て、このままではとても開発事業が進められないとして、外務省、厚生省に強く働きかけたので、漸く厚生省が重い腰をあげ、「国で行う同方面の遺骨は、これが最後のものである」と云う条件付きで、本年十月に四名の係官を派遣して遺骨収集をやることを発表した。

第二師団に所属した全部隊の関係者で組織している勇会で、この情報を受けたのが六月下旬でありました。
早速、新潟、宮城、福島三県の関係者が東京で会合を重ね協議した結果、現地の実情を知らぬ係官が行った処で、前回同様の成果しか得られぬのは明白であるから、吾々生存者が大挙参加して徹底した発掘作業をやり、一体でも多くの遺骨を故国に持ち帰ることこそ吾々の責務であり、ご遺族の念願でもあると云う事で、亀岡代議士を先頭に「戦後処理は国でやるべきが当然であるから、吾々の希望を実現させてくれ」と再三厚生省と接触しましたが、国の予算がないと言う理由で受け入れられず「協力団として参加してもらうのは差し支えないが、経費は自弁で」と云う、誠に冷淡な政府の仕打ちには憤慨したものの、吾々の心情としては、金がないからと云って手をこまねいて見送る訳には行かないので、自費でも参加しようと決めた訳です。

そこで、実際どの位の資金がいるのかを算定した処、二週間の予定で往復航空料金、滞在宿泊費の外に、遺骨用器具器材、人夫賃、宣撫用品、医薬品、車輌借上代その他一切合財で一人約六十万円が必要と判りましたが、この金額ですと参加者の負担が大きいので、早急に募金活動を始め、参加者の負担を軽くしよう。

それには、三県共同歩調で必要額の三分の一宛を県と市町村にお願いし残りを旧部隊関係の皆さんから----との目標を定め、各県毎に実行委員会を作り、三ヶ月の短期間で実施することを決めた訳であります。 本県においては、新発田十六連隊の戦友会である「あやめ会」の組織があるので、これを主軸として旧二師団関係の世話人と連絡し、全部隊関係者に協力して戴き、実行委員会を結成、直ちに募金運動に入り、皆様から力強いご支援を戴いて着々準備を進めた訳です。

当初期待した県からの三分の一については、三県共同歩調という約束から、他県で減額されたために本県も減らされる羽目になり、市町村の三分の一も80%で頭打ちなる等、果たして実現できるのかと危ぶまれました。
旧部隊関係者については、ガ島関係の生存者数が僅かなため、多くは期待できないと思ったのが以外にも大きな反響を呼んで、次々と激励の便りがあり、流石戦友愛の賜と感激させられました。
その他、友好団体、御遺族一般の方々など、県民各層の皆様から暖かいご支援を戴き、概ね目的を達した次第でございます。

派遣員についても、予想外に沢山の希望者があったのですが、限られた人員のため適任者であり乍ら選衡に洩れた人もありましたが、生存者十名、遺族代表一名、全額自費参加者三名、それに新潟日報社とBSNより報道員一名宛を協力派遣される等、県民皆様のご厚意が実を結んで、予定通りの人員を送り出すことが出来た次第であります。

収集団の活動状況は別記報告書の通りでありますが、十月二十七日分骨を捧持した団員の帰新に際しましては、各駅頭でのご遺族、戦友の出迎え、翌二十八日県護国神社における収集報告慰霊祭当日は八百五十名に及ぶご遺族、関係者が参集されて、予期せぬ盛大な行事が出来る等、県民皆様の関心の深さをしみじみと感じられました。

ガ島遺骨収集と云う全県的な大事業を、僅か三ヶ月の準備期間に微力な私共の手で、果たして実現出来るだろうかと危惧しておりましたが、暖かい皆様のお力添えによりまして無事終了出来ました事と、派遣団員一同が、皆様のご期待にそむかぬ予期以上の成果を収めて帰りましたことを併せて御報告出来ますことは、私共のこの上ない喜びであります。

ご遺族の皆様、本当に長い年月お待たせしましたが、皆様のご英霊は私共の手で間違いなく故郷へお連れ致しましたので、どうぞご安心ください。
最後に、皆様のご健勝を祈り、ご好意の数々に対し衷心より厚く御礼申し上げます。

昭和四十六年十二月二十五日
        ガダルカナル島遺骨収集団派遣
          新潟県実行委員会 会長    野田 孝次
          新潟県実行委員会 実行委員長 横山 三義




昭和四十六年10月28日新潟県護国神社で、収骨報告慰霊祭が行われた。
式場に参集された遺族関係者。

分骨を抱いて神前に報告。

祭祀

私達戦場の生き残りの戦友が、多年にわたり待ちに待っていました「ガダルカナル島」遺骨収集の壮挙が、今回厚生省の温かい取り計らいにより決行せられ、且つ収集団員各位の心血を注いでのご努力により、多数のご遺骨を収集することが出来、この懐かしい故国にお迎えをすることを得ましたことは、まことに感激に堪えない所であります。

本日、ここ新潟護国神社の神前において、御遺骨捧安し、来賓並びに遺族多数のご臨席を仰ぎ遺骨収集報告慰霊祭を挙行するに当たり、生存者一同を代表して謹んで祭祀を捧げます。 顧みますれば、「ガ島」作戦は、太平洋戦争の運命を賭け、凄惨苛烈を極めた激戦であり、郷土部隊の廣安連隊長以下全滅に等しい大損害を蒙りた痛恨の地であります。

各英霊に置かれましては、敵の絶対優勢なる制空、制海権の下で、われは数百海里を隔てた絶海の孤島において、輸送は全く杜絶して、弾薬糧秣等の欠乏極度に達し、更に悪疫猖けつを極むる等の悪条件下で、凡ゆる艱苦に耐え、飢渇忍び堅忍持久、最後の一人に至るまで克くその任務を遂行して偉勲を樹て、師団随一の部隊感状を授与せられるの栄誉を荷い、精強を誇る郷土部隊の面目を遺憾なく発揮することを得ましたことは、これ偏に各英霊の尊い犠牲の賜であり、郷土民の斉しく誇りとし、感激措く能わざる所であります。

さりながら、如何に軍命令に依り止むを得なかったこととは申しながら、この尊い英霊のご遺体を戦場に放置して転進するの止むなきに至った事は、かえすがえすも遺憾の極みでありまして、まことに慙愧に堪えず、終戦以来廿有八年、この事のみが片時も忘れる事の出来なかった一同の悲願であったのであります。

幸い、今回この壮挙に多数の参加者を得、かつまた各位献身的ご尽力により七千柱にも及ぶ多数のご遺骨を収集することに成功し、本日ここにご遺族始め多数同志の参列の下、懐かしき故郷の地に目出度くお迎えすることを得ました事は、まことに慶びに堪えないところであります。

英霊よ久しぶりに近親の懐に抱かれ、且つまた温かき故郷の人情に包まれながら安らかな眠りに就き賜りますようお祈り申し上げると共に、併せてご遺族皆様の御健勝と御多幸とを衷心よりお祈り申し上げて祭文とします。

昭和四十六年十月二十八日
         「ガ島」遺骨収集報告慰霊祭   祭主 堺 吉嗣(元歩十六連隊長)






思い出も新たに式は厳粛裡に行われた。
式場に参集された遺族関係者。

850名の方々に心から喜んでいただき関係者の苦労も吹き飛んだ。

報告書


ガダルカナル島遺骨収集新潟県派遣団を代し、ここ護国神社の神前にぬかずき、つつしんで状況の一端を報告し、英霊の安かれとお祈り申し上げます。
昭和十七年八月七日、ソロモン群島ガダルカナル島飛行場の米軍占領に始まる半才にわたる激斗の中で、戦傷病で倒れられた新発田歩兵第十六連隊、第二師団直轄部隊等、新潟県人将兵二,八五〇柱の英霊を現地で慰め、一体でも多くのご遺骨を日本におつれするため、今般「ガ島遺骨収集政府派遣団」の協力団として、新潟派遣団十六名は去る十月十二日、羽田空港発でガ島に飛び、九日間の収骨作業を続け、昨二十六日一応の任務を果たして帰国致しました。
これもご遺族、戦友は勿論のこと、県民的支援、御協力、団員各位の使命感にもえた活動の賜でありました。

かって、砲煙弾雨に焼けただれた島、血肉飛び散り「地獄の戦場」と云われた島"ガダルカナル島"は、波碧いソロモンの海に平和な島影を写しておりました。
かって、血と泥にまみれたアウステン山、ルンガ河も今は美しい山と河の姿に変わっておりました。 死斗をくりかえした沖川、小川の附近は静かな町ホニアラが建設され、弾雨に掘り起こされた台上は住宅地として開発されつつありました。
多くの血を流して夜襲を決行したヘンダーソン飛行場は、今は草地となっており、近くに建設されたホニアラ飛行場には定期便が静かに翼を休めておりました。

しかしながら、つぶさに各激戦地の跡に足を踏み入れた時、未だ当時の面影も多く、かっての戦友の血を吸うた土を掘り、又今なお草むすまま横たわっていた御遺骨をいだきしめた時、感慨無量の涙がとめどもなく流れ、お互は「英霊よ吾等が身体にまつわれ、そして日本へ帰ろう、懐かしい新潟に帰るのだ」と呼び掛けながら、収骨作業を続けました。
戦友の遺骨は私共の手の中に喜びすがりつくような感がいたしました。
そして、カミンボ、エスペランス、勇川、水無川、丸山道、小川、沖川、マタニカウ河、更にアウステン山、旧飛行場及びその周辺等、全戦斗正面において団全体として六,八百五十体の遺骨を収集いたしました。

この収骨作業中、一日たりとも忘れることのなかったであろうご遺族から托された心のこもった品々、亡き父、夫への切々たる手紙、成長した子供の写真、米、酒、菓子、タバコ、ローソク、線香等一,四四一点を、それぞれ戦死された戦場跡一〇ヶ所で慰霊を行った際にお供えし、ご遺族の願いも果たして参りました。

更に十月二十三日、タンベア地区で厳粛に合同慰霊祭を行いました。
ソロモン海のそよ風にほのほはゆらぎ、読経の声は静かな海にジャングルに吸い込まれ、ヤシの木の間からもれる灼熱の太陽の光の中に、立ち込める香煙に中に、戦友のあの顔この顔が浮かび、思いは一気に三十年の昔にさかのぼり、おえつの声絶えることなく、涙新たなるものがありました。
私達は戦友の英霊に対し、多くの犠牲の上に築かれた平和日本の姿、新潟県の姿を報告し、更に永遠の平和を誓い、数多くの戦友のご遺骨をしっかり胸にだきしめて、故国にお連れして参りました。
ここに、英霊よ永遠に眠り安かれと祈りつつ、ガダルカナル島遺骨収集団の報告を終わります。

昭和四十六年十月二十八日
         新潟県ガ島遺骨収集派遣団 団長 佐藤 典夫





慰霊の言葉


本日、ガダルカナル島遺骨収集報告慰霊祭が、ここ新潟護国神社において多数のご遺族ならびに戦友の皆様のご参列のもとに、おごそかに挙行されますにあたり、謹んで慰霊のことばを申し上げます。
想えば、太平洋戦争の勃発をみるや、あなた方は祖国日本の平和を守るため、万里の波濤を越えて勇躍征途につかれ、以来各地に転戦をかさねられ、数々の偉勲をたてられたのでありますが、昭和十七年八月、ガダルカナル島に転進されるや、言語に絶する激戦を交えること半歳、戦陣に傷つき、あるいは病魔に侵され、勇志空しく遂に尊い一命を捧げられたのでありまして、ガダルカナル島における熾烈凄惨な戦斗は、戦史に特筆され、今なお私どもの記憶に新しいものがあります。

時うつり二十八年余、遠く故国をはなれた南冥の島に、いまなお草むすかばねとして眠るあなた方を、この故国にお迎え出来ますことを念願して参ったところであります。
このたび、ご遺族ならびに戦友の皆様は勿論のこと、県民をあげての長年にわたる願いが実現し、当時生死をともにした戦友や肉親の手により、あなた方をお迎えし、今ここにあなた方を慕い懐かしむ多数の人たちが各地から寄りつどい、静かにありし日を偲びますとき、感慨一入深いものがあります。

大戦の戦火がおさまり、平和がよみがえってから四半世紀、あなた方が遠い南冥の地にあって、一日たりとも忘れ得なかった郷土新潟県は、いまや日本海沿岸随一の雄県として、目ざましい発展をなしとげ、さらに一層の繁栄をつづけようとしております。

私どもは、このような平和と繁栄が、あなた方の尊い礎の上に築かれたものであることに思いをいたし、更に決意を新たにし一層の努力をお誓いするものであります。

おわりにのぞみ、ご英霊の安らかなご冥福をお祈りいたしますとともに、ねがわくば、肉親の皆様ならびに戦友の皆様の心からなるこの慰霊祭をご照覧下さいまして、郷土の前進と、ご遺族並びに県民のうえに限りなきご加護をたれ賜りますよう謹んで祈念申し上げまして、慰霊のことばと致します。

昭和四十六年十月二十八日
         新潟県知事 亘 四郎




大任を果たしてホッとした派遣団員。




英霊の分骨は懐かしの新発田市越佐招魂社納骨堂に安置され、三十年振りの故郷の地で嗣安らかな眠りにつく。(祭主 堺吉嗣元16連隊長と市島氏)

慰霊の辞

大東亜戦争のため、遠い異国、南冥の地、ガダルカナル島において散華された英霊に対しまして、謹んで慰霊の言葉を捧げます。
戦後二十有余年の間、皆様方は異国の地において、長い間の雨露に耐え忍ばれて参りま したが、このたび遺骨収集派遣実行委員会の方々の胸に抱かれ、夢にまで待ち望まれておられたであろうご家族のもとに無事お帰りになられました。
遺骨収集派遣実行委員会は、ご遺骨収集のため十月十一日、遥かな海を越え、はるばる、"ガ島"に向かわれましたが、本日只今、無事その大任をはたされ帰国されました。

英霊の皆様、本当に長い間ご苦労様でございました。
祖国日本はいま英霊の皆様方のご遺徳、ご加護により、戦後二十余年平和国家として逞しく発展をとげ、国民は平和な生活を送っております。
英霊の皆様、今日からは遥かに遠く思いをはせておられたご家族、肉親の方々とご一緒に皆さんの故郷で安らかにお眠りください。
また、遺骨収集団の皆様方には、かっての思い出深い戦場で。亡き戦友のご遺骨収集の大任をはたされのでありますが、皆様の胸中に去来する感慨は、無量のものがあったことと拝察申し上げるものでございます。
今日からは安らかに、ふるさとの土にお眠りください。


昭和四十六年十月二十八日
         新潟県町村会長 中山 与志夫






参列の遺族関係者は往時を偲び、熱心に収集報告に耳を傾けられた。



ガダルカナル島遺骨収集派遣団
新潟県実行委員会会則

趣旨)第一条
本会は、昭和四十六年十月、厚生省の行うガダルカナル島遺骨収集に伴う協力派遣団のための事業を行う。
 (名称)第二条
本会は、ガダルカナル島遺骨収集団派遣新潟県実行委員会と称す。
 (組織)第三条
本会は、第一条の趣旨を達成するため下記の組織を構成する。
一、実行委員会
  ガダルカナル島作戦参加の旧歩兵第十六連隊及び第二師団直轄部隊圏内生存者ならびに県連合遺族会。
二、事務局
 
(役員)第四条
実行委員会には下記の役員を置く。
会長   一名   副会長  一名
委員長  一名   副委員長 一名
委員  若干名   会計監事 二名
役員の選出は委員総会において決め、任期は本事業官僚までとする。
 
(事業)第五条
第一条の趣旨により、その目的を達成するため、下記の事業を行う。
一、ガダルカナル島遺骨収集のため、次の人員を派遣団として参加せしめる。
イ、旧歩兵第十六連隊ガ島関係生存者      五名
ロ、旧第二師団直轄部隊ガ島関係県内生存者   二名
ハ、県内ガ島関係遺族代表者          一名
 
(経費)第六条
本事業を行うための諸経費は、募金および寄付金をもって充当する。
 
(その他)第七条全角号に定める以外の件については、実行委員会がこれを協議して行う
 
。
以上
 
 
役員名簿
会長     野田 孝次(歩兵第十六連隊)
副会長    市島 仙三(歩兵第十六連隊)
実行委員長  横山 三義(歩兵第十六連隊)
福実行委員長 角南 静彦(県連合遺族会長)  宮川 三四二(第二師団司令部)
       佐藤 典夫(歩兵第十六連隊)  坂井 正義(歩兵第十六連隊)
委員     小柳 正一(第二歩兵団司令部) 小林 誠司(輜重第二連隊)
       田中 功 (野砲兵第二連隊)  安達 収作(工兵第二連隊)
       田中 清 (捜索第二連隊)   近  勇次(第一野戦病院)
       根布 長蔵(兵器隊勤務)    平林 一太郎(衛生隊)
            (通信隊)      清水 絢(防疫給水部)
 
       (歩十六あやめ会)
       大平 _、 長谷川 榮作、 安部 茂、 杉林 清蔵、 小林 俊男
       石井 重雄、 井川 徹   窪田 三郎、 大野 清、
       山田 幸一、 久住 正八、 小林 直寿、 広田 明節、 
       青木 丈夫、 高波 光男、 後藤 豊吉、 石田 甚一、
 
会計監査   小沢 義雄(歩兵第十六連隊)  林 健作(野砲兵第二連隊)
 
あやめ会地区担当委員
       杉林 清蔵、 小林 俊男、(新潟市)
       佐藤 明治、 清水 誠助、(長岡、越路、山古志)
       西条 武蔵、 岩崎 喜代造、(上越、柿崎、三和、頚城、牧)
       矢沢 正一、(三条、下田、栄)
       藤巻 正英、(柏崎、高柳)
       相馬 直次、 平間 栄一、新発田、豊浦、紫雲寺、加治川)
       田中 武男、(新津)
       皆川 又一、(加茂、田上)
       大月 留吉、(小千谷)
       越村 己則、(十日町、川西、津南、中里)
       志賀 慎一、(見附)
       小野 正教、(村上)
       長谷川 孝明、(燕)
       草間 純治、(新井、中郷)
       中沢 寅一、(栃尾)
       後藤 正隆、(糸魚川、青梅)
       吉井 那夫、(五泉)
       川上 登、(両津)
       横山 英勇次、 佐藤 元春、(豊栄)
       外川 政蔵、(白根、月潟、味方、中ノ口)
       山口 晋二、(水原、安田、笹神、京ヶ瀬)
       長谷川 榮作、(聖籠)
       奥村 誠一、(中条)
       大平 _、(黒川)
       風間 惣平、(小須戸)
       浅間 俊男、(村松) 
       石本 洪規、(亀田) 
       中川 富栄、(横越)
       諸橋 数雄、(中之島)
       山崎 専一、(吉田)
       大岩 修作、(岩室、弥彦)
       安部 高次、(巻、西川、潟東)
       山沢 秀三郎、(寺泊、分水)
       桜井 市助、(黒崎)
       二平 文次、(津川、鹿瀬、三川)
       清野 政治、(上川)
       小熊 登代吉、(与板、三島)         
       飯田 勝一、(出雲崎、和島)
       林 孝次、(堀ノ内、川口)
       上村 敏政、(小出、入広瀬、湯ノ谷)
       坂西 孝左久、(広神、守門)
       森下 覚、(湯沢)
       目黒 勝利、(六日町)
       関 圭三、(大和)
       小野塚 貫一、(塩沢)
       品田 義栄、(刈羽、西山)
       大橋 康正、(小国)
       加藤 友三郎、(名立、能生)
       増田 政一、(安塚、大島)
       柳 梯治、(松代、松之山)
       武田 武男、(吉川、大潟)
       渡辺 喜市、(妙高、妙高々原)
       宮越 茂登、(清里、豊倉)
       横山 幸、(関川、荒川、神林)
       本間 正一、(朝日、山北)
       大地 松蔵、(相川)
       左京 福蔵、(佐渡郡全般)
-------------------------------------------------------------------------------
事務局 新潟市上所島上沢 安部 茂 方
(事務局員は、在新潟市委員全員の兼務とする。)
 








暗黒の孤島に遺骨を求めて

人間生きと死いきる者、死に勝る大事はない。
戦争は多くの人命を奪ってゆく。戦争が正しかったか、正しくなかったか、是か非かは後世の歴史で評価されることである。
大東亜戦争も、除々と遠い歴史の中に綴り込まれようとしている。
しかし、未だ歴史の中に綴り込めないものがある。
いや、綴りこんではいけないものがある。

それは広ぼう六千粁南冥の果て、荒涼たる原野にさらされている同胞の遺骨処理である。
「戦争の勝敗は直ちに判明するが、真の原因とその経過は実に複雑で正しく真相をつかむことは容易でない」というある公刊戦史の序文の一節であるが、戦場において幾十万の将兵に敢然と死を越えさせたものは何であったであろう。

当時、祖国愛とも言った。
民族の興亡をかけた同胞愛とも言った。
これらの戦争指導理念は人類の歴史は、常にたくさんの犠牲に支えられて来ているし、斗争流血の繰り返しによって生き抜いて来た事実を背景として展開されて行ったものではなかろうか。
従って、ただひたすらに国運をかけた尊い自己犠牲による民族意識がそうさせたものだと思う。

今や我が日本は、こうした犠牲と試練によって新しい生命が誕生して経済は復興し、世界人類の平和と発展に貢献をすべく懸命なる努力を重ねている。
要するに大東亜戦争という巨大な試練より得た尊い結論といえよう。
一方にあいては平和を希求するあまりか、いまわしい戦争の傷跡にふれることを恐れてか、ことさら手を離してはならない大切なことまでも忘れかけている。
即ち南海の孤島、或いは密林の中に眠っている幾万の将兵のことである。

勿論、遺族個々の立場からすれば一日たりとも忘れ得ぬことであろうが、国家的な記憶の中ではなぜか忘れられてゆくことは全く遺憾である。

戦争のことにふれないことが、語らないことが、忘れることが平和に繋がると思っている世相が果たして健全な社会思想とするならば、誰が民族発展のため真剣になれるものがあろうか。
私共は、本計画が曲がりなりにも実行されるまでの戦後二十六年待ち続けて来た不満と怒りであった。
今回はからずも国の計画として、不満足ながらもガダルカナル島の遺骨収集計画が発表されたことを機会に、新潟・福島・宮城県(旧第二師団管轄)の同島生存者にとって誠によろこばしい限りであった。



ガダルカナル島とは

ガダルカナル島は、ソロモン群島の東南端に近く、東西一五〇粁、南北八〇粁、新潟県の約半分の大きさで、島北部海岸の細い帯状の平坦地を除いたら全島山岳で、千古前人未踏の密林におおわれた暗黒の島である。
英国の保護領下にあって、日本本土を去る六千粁の遠く離れた位置にある。
気候は一般に湿熱酷しく、降雨量が多い。

英霊の分骨は懐かしの新発田市越佐招魂社納骨堂に安置され、三十年振りの故郷の地で嗣安らかな眠りにつく。(祭主 堺吉嗣元16連隊長と市島氏)

ガダルカナル島作戦とは

日本は南方攻略戦線安定のために、フィジィ諸島、ニューカレドニア島およびニューギニアを一挙に手中に収めたかった。
即ち、S・F作戦は南太平洋に決定的ピリオドを打とうとする最後の大作戦といわれた。
ラバウルを海軍の前進根拠地とする前哨的な陣地でもあり、濠州の孤立化を企図し、米濠遮断作戦として計画され、諸方面よりする敵の反撃企図を封殺することを目的とする遠大な計画であった。


昭和四十六年十月十日、靖国神社での結団式

ガダルカナル島における戦斗概要

歩兵第十六連隊主力は、昭和十七年十月十四日、ガダルカナル島「タサワロング」に上陸した。
南海のはてにジャングルでおおわれた、この小島ガダルカナル島が、日米決戦の焦点になろうとは、何人が予想したであろう。

この方面における固定配備の第四艦隊参謀が、昭和十七年七月二十八日、会議の席上、「天が陥してもガ島は大丈夫・・・」と、豪語したという記録がある。
今にして想えば、数多くの誤算があり、作戦上のミスがあったことが、素人眼から見ても判るものがあった。

第一に、敵の反攻実力が急速に増していることの察知が出来なかったこと。
次に、我々陸軍の常識として判断し難いことは、ガダルカナル島がラバウル基地を距る六百里の尖端にあって、当時の海軍戦斗機の航続距離の頂点にあったこと、敵の基地はエスピリット島にあり、それからの距離は四百里であった。
私共は制空権もない。
従って補給船舶の航行も出来ない"離れ小島に島流し"にされたようなものであった。

なぜ、ラバウルから適当な島伝いに中間基地を作りながらガダルカナル島に達しなかったのか、飢餓の島と化した要因はうかがえる。
大和魂も、越佐魂も、飢餓には堪え切れず、阿修羅となって敵の物量と斗ったが所詮は勝てず、若くうるわしい青年が密林の落ち葉と共に屍となり、朽ちて逝った。
揚陸食糧は、十月二十四日夜の敵飛行場攻略すれば「ルーズベルト」給食にありつけるとして、至極少量しか準備されていなかった。

携行して来た食糧はいくばくもなく食い尽くして、糧秣の補給は困難となり、米は全くなく、乾パンのみとなる。
十一月五日頃にはいよいよ食料なく、草根木皮、やしの実に頼る以外になしとなる。
この頃より、ようやく極度の飢餓と熾烈な砲撃に、前線将兵は"タコツボ"にへばりついたまま、肉体と精神、本能と理性の戦いが始まった。

師団長よりの訓示として「急務は戦力の恢復、保健衛生の向上、悲観、絶望することなく、志気を昂揚すること。弾丸にたおれるも、病にたおれるな」の示達があるも如何ともし難い状況。
昼間は海上よりの艦砲射撃、陸上は各種火砲の集中、空よりは低空飛行による手榴弾の投下まで行われる。 殆ど"タコツボ"より顔すら出せない。

夜はようやく死力を尽くしての夜襲が行われるが、勿論致命的な打撃を与える戦力とはならない。
彼等の銃撃が止み、夜が更けると、いつとはなく死んだように"タコツボ"で眠りにつく。
ふと目がさめると、闇に包まれたジャングルは「キナ」臭い砲煙をたゞよわせて、孤独 感がひしひしとせまって来る。

そして小さな人間を押しつぶしそうになり、地の底に引き摺り込むような不気味さとなる。
静寂は静寂を呼び、闇は闇を深めて、静けさと暗黒は魔の世界のように人間の感覚を空にする。
髪の毛は抜けはじめ、視力は衰え、声は細り、足の感覚が鈍ってくる。
生もなく死もなく、わずかに鍛えられた過去の訓練と意思のよって、無意識的な行動をしているに過ぎない。

既に人間が人間としての限界を越えている状態である。
本能としては二本脚の野獣に近く、生命の執着と食う本能だけが作動している。
理性としては死生観を求めて、人間として軍人としての体面を保持しようと努力している。
動けない体は、遠慮なしに燐蠅がたかり"ウジ"の山となり、三日もたつときれいな白骨となる。

それでも死の直前まで"タコツボ"に据えた銃をとり射とうとする気力は捨てなかった。
"タコツボ"は概ね五米〜十米の間隔をもって掘られている。
その中に入っていると、天にも地にも一人残されたような感覚になる。
こゝでは数秒単位の生命力である。

陽が暮れると、あれ程激しかった砲爆撃が、タコツボに直撃しなかったことが不思議である。
栄養失調の体は、下痢にやられたら死の宣告であり、体力がないためマラリアに対する抵抗性がなく、発熱がひどくなると気が狂って三日〜四日で死ぬ。
隣の壕も左右の壕も、既に息絶えた戦友が白骨化している。
太陽が上がり敵の攻撃開始と同時に秒単位で刻まれる死との対決がはじまる。
日増しに人間の生存可能条件が困難になってゆく。
生命の灯が消えるまで祖国を愛し、肉親に想いを馳せて、自分の生命がそのためのものであればと、心で笑って死んで行った戦友達である。

勿論、この島で誰れ一人として生き残れると思う者はいなかった。
しかし、戦局は利あらず、御前会議の決断は転進と決定された。
一月十七日、真相は、大隊長以上に示達されたが、「軍は兵力をカミンボ附近に集め、最後の決戦を準備す」という名目のもとに、転進作戦が開始された。
負傷者、病人を先にして、逐次戦線を整理しながら、部隊をカミンボ附近に集結した。

昭和十七年十月二十四日夜、ルンガ河渡河地点において、有名な師団長命令詞「師団は天明の加護により、全く企図を秘匿し、ルンガ飛行場南側に進出することを得たり・・・・」を冒頭にした"ルンガ飛行場攻撃命令下達"以来三ヶ月後、日本陸軍史上類例のない撤退作戦が開始されたのである。
勿論、下士官、兵は撤退地点に終結後、その意図を伝達されたのである。
暗夜の海上に、駆逐艦が沖合いに浮かんだのを見ても正直なところ、それ程に「あゝ助かったのだ」とう感懐がこみあげてこなかったのは、なぜであろう。
既に精神的には死んでいたのかもしれなかった。

斯くして幾多の戦友の屍を、ガダルカナル島の密林に残置したまゝボーゲンビル島エレベンタに転進した。
暗夜の海上に消えゆくガダルカナル島、再び訪れる日のあることを誰れが予測し得たであろう。 我々はまた次の戦場につくを想えば、黄泉に待つ戦友の霊にしぎしの別れを語らいつゝ、艦上に感あり---。
以上は、ガダルカナル島における戦斗の一端である。
勿論、筆舌には尽くし得ないものがあり、戦友個々のことも記したいが、本誌では割愛することにする。


亘県知事に出発の挨拶をし、激励を受けた。

  • 次頁


  • トップページ