冥府

日本陸軍 第二師団 歩兵第十六連隊 新発田 あやめ会 戦記 戦死者名簿 ガダルカナル 雲南 ビルマ ジャワ ノモンハン 遺骨収集 政府派遣

暗黒の孤島に遺骨を求めて2



遺骨を求めて故国を発つ

今次の遺骨収集は、三井金属株式会社が"ガダルカナル島"西南方のレンネル島においてボーキサイトの発掘を行うため、その現地事務所を「ホニアラ」(ガ島首都)において、現地視察をしたところ、日本人の遺骨がその山野にあまりにも多く散見されたため、尾本社長みずから同島へ渡り調査をした。
その結果、この遺骨をそのままの状態で、会社の事業のみを考える事は出来得ないとして厚生省に申し入れ、収集計画が実行に移されることになったものである。

厚生省としては、早速係官を現地に派遣したが、現地の事情からして到底数名の人手のみに負える状況ではなかったのである。
私共「ガ島」作戦参加生存者は、この機会に出来得る限り多くの戦友を故国に迎えるためには、我々みずから協力をする以外にないと考え、この意を申し入れたのである。
その結果は、これらの経費の調達は、我々の自主的な努力によってまかなわなければならなかった。
従って、私共がこの事業に協力することは、単なる郷愁や感傷ではなく、純粋なる人間愛、友愛からであり、戦後の宿願として絶えざる努力を続けて来たものである。
八月二十三日、派遣団員の選衡が行われて、九月五日、新潟市万代会館において派遣団員の会合があり、ようやく本格的に細目が決定された。

政府実施 勇第二師団ガダルカナル島遺骨収集協力団 団員名簿

 
注、○印は先発隊         昭和四十六年十月十二日
 
    地区   旧所属     氏名    住所
団長  本部    歩16       亀岡 高夫   杉並
本部付 本部   歩16     ○富樫 正        中央区
医師  本部   1FL    近  勇次   新発田市
僧侶    本部   歩16    矢島 聖阿   台東区
 
副団長、地区班長
    宮城   歩4    佐々木次男   仙台市
    宮城   歩4    村上豊次郎   柴田郡
    宮城   歩4    高橋勝比古   登米郡
    宮城   歩4    小金沢 力   石巻市
    宮城   歩4    山田 辰雄   仙台市
    宮城   2司    山口 進平   仙台市
    宮城   HE     松浦 敏男   仙台市
    宮城   2A     渡辺 克己   塩釜市
    宮城   1FL    沼田 ]雄   仙台市
    宮城   2P(2FL)  大宮 正    仙台市
    宮城   遺族    郷内 稔    名取市
    宮城   報道員(2P) 菅原 薫    松島町
 
地区班長新潟   歩16    佐藤 典夫   新潟市
    新潟   歩16   ○長谷川榮作   聖籠村
    新潟   歩16    杉林 清蔵   新潟市
    新潟   歩16    吉井 那夫   五泉市
    新潟   歩16    佐藤 元春   豊栄市
    新潟   歩16     安部 茂    新潟市
    新潟   旅司    大地 松蔵   相川町
    新潟   歩16    横山 三義   新津市
    新潟   歩16    佐藤 明治   長岡市
    新潟   2T      小林 誠司   長岡市
    新潟   2T     清水左忠二   栃木県黒磯市
    新潟   遺族    渡辺 和春   新発田市
    新潟   遺族    佐藤 敬義   新潟市
    新潟   報道員   山田 一介   新潟市 新潟日報社 
    新潟   報道員   鷲頭 憲彰   新潟市 BSN
 
地区班長福島   歩29    遠藤 正弥   鹿島町
    福島   司     森山 浩治   飯坂町
    福島   歩29    佐藤喜久夫   白河市
    福島   歩29   ○渡部 実    千葉県松戸市
    福島   2A     浜尾伝兵衛   郡山市
    福島   DTL     高橋 宏次   福島市
    福島   遺族    越智 英雄   いわき市
    福島   報道員   安部 輝郎   福島市
 


十月八日

長谷川榮作団員が先発要員として八時の「とき」にて上京した。
先発隊は本隊より二日前に現地へ先行して、関係機関との連絡や情報収集をして本隊到着後、直ちに作業にかゝれる準備を目的とし本部二名、各県より一名宛の編成で十月十日靖国神社で修祓式、壮行会を終わり十八時羽田空港香港経由で現地に向かった。
あとで判ったことであるが先発機は十一日午前三時頃乗換空港であるポートモレスビー上空が悪天候のためオーストラリアのダウイン空港発、濠州大陸を横断して十時半シドニー空港に到着、少憩後シドニー空港発、午前四時ニューギニア、ポートモレスビー空港に到着したが連絡機がないため二日間足止めを余儀なくされ、結局本隊と合流する結果となった。

十月十一日

本隊出発の日である。 十時計画通り十五名の団員が新潟駅前万代会館に集合、直ちに県護国神社に至り修祓式、結団式を終了し、県庁へ赴き亘県知事、君副知事、矢野民生部長、援護課長に出発の挨拶、引き続き市長会、町村長会、BSN、新潟日報社を訪れ出発の挨拶をして午前の行事を終わる、十三時シルバーホテルにて知事始め来賓、関係者多数出席の壮行会に臨み激励を受け、十五時発「とき」にてご遺族、関係者多数のお見送りを受けて壮途につく、十九時上野着直ちに宿舎へ入り携行資材等の交付を受け出発準備完了す。


十月十二日

十一時靖国神社に集合し、修祓、昇殿参拝を済ませ、靖国会館で勇会主催の壮行式に臨み、こゝに第二師団収骨団として本部四名、新潟県十五名、宮城県十二名、福島県八名、計三十九名の結団式を終了した。
団長の亀岡高夫議員は国会議運のために同行を断念、四、五日後に追及するからよろしくと云う、残念なる心境うかがえて同情に堪えず、関係者多数の見送りを受けて十七時羽田空港出発、香港経由ポートモレスビーに向かう。

離陸十分後雲の切れ間から夕日に映えた富士山の勇姿が現れ吾々の壮途を祝福してくれるよう、僅かな時間でクワンタス航空のB707は雲間に入り快調に飛ぶ。
二十一時百万ドルの夜景といわれる宝石の壁をめぐらせたような高層建物の見事な香港空港に着陸、給油のため約一時間休憩する。

ロビーで和服にハンドバックと云う軽装の年配御婦人五名、観光客と思いきや関西婦人連盟の人達で、食肉調査の関係から濠州政府の招待を受けてシドニーへ行くため同じ飛行機の客と判る、シャモジのオバサン達仲々やるわいと思い乍ら話していたら、私共の労をねぎらって下さった。
二十二時三十分香港出発直後、ニューギニア方面の気象状況が悪いためオーストラリアのダーウィン経由で、ポートモレスビーに向かうと知らされた。


十月十三日

四時十分ダーウィン着、濠州政府の検疫検査があり、五時五分出発、機上より日の出の素晴らしい風景を楽しんでいるうちに、八時ポートモレスビー空港へ到着、小型機に乗換の為シャモジのオバサン達と分かれて待合室に来たら先発隊一行が出迎え、これには一寸驚いたが事情は前記の通りの不可抗力である。
九時二十五分、いよいよ専用機に乗り込み出航した。

飛び立つと間もなく標高四千メートルのスタンレー山脈上空に来た。
この山脈こそは、歩第四十一連隊を主体とした藤井中将の率いる南海支隊が東部ニュウギニアに上陸、重畳たる山脈を踏破してポートモレスビーに向かい進撃するも、ポートモレスビーの灯が見える地点に到着したが、作戦計画の変更により反転を余儀なくされ、食糧の補給は困難となり、加えて寒冷のため、全員が山中に消滅した悲劇の山脈である。

あゝ悲し、全滅の嶺よ・・・・・機下にあり、深々たる原生林が果てしなく続く。
その奥深く点々と土人の住居が点在するを見る。
道もなく、おそらく原始生活をする猿同様な生活をしているのだろう。
ニュウギニアの奥地である。
いよいよニュウギニア東部の海岸に出た。
どんな名画家もデザイナーも演出出来ない色彩を放つ、"珊瑚礁"がある。
この世のものとは思えない極楽島とでも形容しようか。

なおポートモレスビーの出発は、専用機が三十六名乗りのため、第二師団は先発と後発に分かれた。
先発機には、佐藤典夫、横山三義、安部茂、長谷川榮作、杉林清蔵、佐藤元春、近勇次、大地松蔵、佐藤明治、山田一介、鷲頭典彰、の十一名。
後発機には、清水左忠次、小林誠司、吉井邦夫、渡辺和春、佐藤敬義の五名。
十三時十五分、左前方にガダルカナル島西方のラッセル島が見えはじめた。

あゝ、遂に来たのだ-----。

夢ではないのだ-----。

戦後二十九年、今日でも夢に出てくるガダルカナル島は、現実に目前にあるのだ。
昭和十七年十月十四日夜、駆逐艦によって輸送された海域バングヌ島〜ラッセル島を通過中である。

瞑想すればあの顔、この顔、戦友が目に浮かぶ。
二十九年前の現実に引き戻されたような感じである。
十三時二十五分遂にガダルカナル島が見えた。
白雲になびく南海にぽっかり浮かび出た姿を、まばたきもしないで、全員息を呑んで見つめる。
飛行機の右側に全員が集まり窓を覗く。
いよいよ近づく飛行機は、スペシャルサービスということで、私共のために島端より低空飛行をして旋回して見せてくれた。


ヘンダーソン飛行場に到着、レイをかけられて戸惑う団員

ああなつかしいエスペランス岬、タサワロング、コカンボナ、それぞれの河、台地あり、タサワロングに座礁した輸送船が見える。
ジャングルから戦友が手を振って迎えに出ているような感さえする。
誰かが思わず「おーい迎えに来たぞ」と声を立てた。
十三時四十分、遂にホニアラ空港にエンジンを停止、ガ島の上に一歩踏んだ。


10月13日午後一時半にガ島の上空、機内は一瞬緊張して窓から覗き込む。


空より見たホニアラ住宅街 上方はクルツ岬のホニアラ港と市街地。当時の小川、沖川附近が開発され町となり日本名の「さる」「りす」「とら」などの高台が住宅地に変わっていた。


チャーター機のフレンドシップはコリ岬附近から反転し上空を一周してくれた。


飛行場に着陸寸前、戦後ホニアラ市街の開発と共に新設された1,800mの滑走路を持つこの飛行場はヘンダーソン飛行場と呼ばれるガ島の玄関口、旧飛行場の北西3キロ、海岸線に平行して新設された。


日米攻防の焦点、旧ルンガ飛行場跡は無線基地になっていた。 後方に見えるのがアウステン山。



ああこの土だ、この飛行場が攻撃目標であったのだ。
全身の血がスーッと頭に上ったような感じ-----、戦友よ迎えに来たぞ。

二十九年間、淋しかったであろう、草木にうもれ白日に曝され、誰も訪れることもなく待ったであろう。 温度は日照で四十度、さすがに暑い。
飛行場より南方にポッカリと見える血と汗にまみれた"アウステン山"初めて敵陣より我が軍の足跡を見たのだ。

いつもいつも深いジャングルの中で、もぐらのような戦斗をして来た我々には、太陽の輝く高地に立っての全ぼうは初めて見たのだ。
しかも二十九年過ぎた今日において、ここから見える戦場はアウステン山、「血染めの丘」という「むかで高地」である。

TAAのマイクロバスによって飛行場を出発、宿舎であるカミンボ地区タンベアへ向かう。
飛行場を出発して十五分、ホニアラの入り口マタニカウ河を渡る。
二十九連隊の作戦場である。

飛行場附近は岡部隊の戦場、いよいよクルツ岬を中心とするホニアラ市街地である。
平和とはこういうものか、三十年の歳月の永さ大きさをしみじみと考えさせられる。
立派に整理された街並みが建ち並んでいる。

マタニカウ河を渡ると二分で小川、沖川の戦場である。
ここは我が十六連隊が飛行場攻撃を断念、丸山道を逆行、海岸方面より再度ルンガ飛行場に向け攻撃に転じた前線陣地でもあり、転退作戦を開始するまでの期間、はりついた想いでの戦場である。
それがすっかり市街地となり、立派な建物、公園、緑地となっている。
クルツ岬は、立派な港として船舶の出入りがはげしい良港となっている。


売手市場、品物は売れなくとも、一日中ペチャペチャ

果たして、戦友の遺骨はどうなっているのか。
明日よりの収骨が思いやられる。

今度は、丸山道の入り口である。勇川道路の舗装もここで切れている。
眼に残っている岩石の断崖が続く。
舗装ではないが、約十二米巾程度の手入れの行届いた道路が海岸沿いに延々と続く。
コカンボナ、ポハ河(水無川)、タサワロング、エスペランス、カミンボと車は走る。
途中、手入れの行届いた椰子林は戦後なされたものらしく、地形も変わっている。

途中の土人たちはさかんに手を振って自動車に近づいて来る。
夕陽に光る椰子の葉が美しい。
ああ、この林、この河、戦友が血に染めたところである。
全線が戦場であったのだ。

走馬灯のように二十九年前の光景を想い出して、みんな真剣な表情をしている。
上陸地点のエスペランスを過ぎると間もなくカミンボ地区タンベア、飛行場より約二時間の行程であった。
明日よりこの行程約六十四キロの地域にわたっての収骨作業をするのである。

六時三十分、宿舎であるタンベアに到着、ガ島の落陽は短時間で闇が迫る。
宿舎はスゥェーデン人が経営する"ニッパハウス"である。
食堂一棟、宿舎は三人〜五人ベットで十八棟がある。
タンベアビレッジと呼ぶ。

十八時三十分、第二師団(新潟、福島、宮城)第三十八師団、第十七軍直轄関係者全員が顔を揃えての夕食会である。
全団の団長代理である佐々木副団長、三十八師団の神谷団長、政府派遣団長の石田氏、三井金属上田氏の挨拶がある。
夕食後、明十四日の行動計画打合せを行う。

今夜は晴れ、さすがの日照も夜間になると、そよ風で肌に涼しく感じる。
ガ島における二十九年ぶりの宿泊である。
二十九年前には勿論床に入って寝るのではなく野宿であった。
寝具はマットレスのついた寝台に敷布のような掛布があるだけである。
常夏の夜とはいっても夜半以降は、海辺より風のうす寒い感じである。

ホニアラ空港の入り口に展示してある大阪工兵廠の高射砲



昭和十五年大阪工兵廠製の15糎榴弾砲や対戦車攻撃に活躍した速射砲がホニアラの中央公園内に展示されていた。



十月十四日

七時三十分朝、勿論味噌汁、ご飯というわけにはゆかない。パン食である。
石田政府代表、佐々木副団長等五名は、ホニアラの現地政庁に挨拶。
収集団一行は収集計画個所の偵察を行う。

途中、地図と現地に照合を行う。
当時、カミンボ、エスペランス、コカンボナ、ルンガ、マタニコウというような主要地、河川を除いた地は日本名をつけて行動していたため、地図との照合は非常に難しい。
例えば水無川と名づけていた川がポハ河と同じであることをつきとめるに相当な時間が掛かった。

我々はまず最初に、ルンガ飛行場の攻撃地点の確認に行ったが、確実な地点の認知が難しい。
常識的には考えられない事であるが、やはり三十年の歳月という過去の永さをつくづく痛感させられた。
地形が変わり、地上物件が変わっている。
当時の地形を頭において探索をしてもなかなか一致しない。
明日からの収骨が思いやられて気持があせる。

アウステン山を見ても、当時あれ程に苦労をして突破した山なのだという考えが頭にあるせいか、現実目の前に見えるアウステン山は、さほど峻嶮さは感じさせない。
はやく夜襲現場の戦跡を探し出したい。
小川の戦場も沖川の戦場も、コカンボナ、水無川もみんな確認したいと思っても思うようにはゆかず、第一日目の行動を終わる。

第一日目の結果、初めて敵陣の側より我々の攻撃した経路を見たのである。
ガ島作戦、ソロモン作戦、全体の体形からしても前述のとおり作戦的には誤差があったこと。
「ガ島」作戦に至っては、この地形において彼、我の条件は、仮に私共が米軍の指揮官であったら、日本軍を一ヶ月足らずで撃滅出来たであろうと思われる状況にあった。

我々が絶好の遮蔽物であると思って潜行進撃したジャングルは、単なる地殻のシワであって、極めて良好な攻撃目標であったのである。
米軍陣地より見れば実に展望が良く、ジャングルに砲爆撃を加えておれば他に目標を探 さなくともよいのである。
即ち、高い台地は山ではなく、低い谷間が平坦部を切り下げた谷間なのである。
そこが密林になっているのであった。

もっとも、このような地形はオーストラリアおよびソロモン群島の特色のようであった。
夕食後、明十五日の行動計画協議を行った際における各隊の様子もみんなそうであったようである。
新潟班は十六名全員で現飛行場を通過、約六キロテナル河北方の道路よりアウステン山方面に入り夜襲地点を探した。

高地に昇ったりしてみたが確実なる地点を確認出来なかった。
しかし後刻、ここが夜襲地点であったことは確実になった。
二十九連隊、四連隊も同様の成果であった。

但し、マタニカウ附近の戦場は市街地の中心として開発されているも、海岸に近いこと、河状がそのままの関係で確認が容易であった。
三十八師団関係者はむかで高地(血染めの丘)百武台、特に勇川支流附近は、個人壕まで発見されたのこと。
九百三高地も発見された。


  米軍陣地ムカデ高地より見たアウステン山


  水量豊富なルンガ河は、かっての激戦など忘れたように洋々たる流れを持っていた。


  マタニカウ河右岸の高地から見たホニアラ港。


  十六連隊夜襲時の旧ルンガ飛行場を探すため地図と記憶で高台から偵察を繰り返し、漸く確認することが出来た



十四日の協議事項
1.偵察の結果
イ、徒ずらに旧戦場を馳せ廻っても収骨は不可能である。また、ジャングルに入り込んでも、人の手で眼で探し出すことは不可能に近い。
ロ、従って現地政府関係、三井金属、土人の情報を求めて、まずその地点を重点として収骨をする。
ハ、ジャングルに入った場合、四時までにはジャングルより出ること。
ニ、土人はその場その地点に近い土人を調達すること。土人にはそれぞれ縄張りがあるので、遠い地点から連れて行っても無駄である。
ホ、現地の土人には日当として一日一ドルとして案内を頼み、情報としては買わないこと。情報に基づいて案内をして確実に遺骨があった場合に支払うこと。
焼香する際、自分の宅地内に焼骨をすると霊魂が出るので、親戚相談をして断った例があった。
なるべくトラブルは避けること。
ヘ、政府方針として
○氏名の判明した遺品は持ち帰るが、その他は持ち帰らない方針。
○土人は既に遺留品を金で売る考え方を持っているが、確認だけして買わないこと。
政府側の入手している情報
ダイボ岬 一枝隊
ルンガ岬(椰子園)
むかで高地
オースチン山西側(ワトコルサン)
コカンボナ
タサワロング
タンベア
ドマ
カミンボ
マタニコウ上流
テナル河上流
ポハ河上流
明十五日にはこれらの情報を基礎として収骨作業に着手することに決めた。ガ島の夜は馴れないせいか、或いは収骨のための昂奮のせいか寝つかれない。
枕もとより三十米先は波が来ている海辺で、打ち寄せる波の音はリズムをもって打ち鳴らす。



小川、沖川陣地から米軍輸送船が堂々と荷役しているのが見えたクルツ岬附近はガ島唯一のホニアラ港となり、日本のカツオ船も入港していた。


長期間米軍と対峙して死守した沖川の16連隊本部跡は既に開発されて、芝生の綺麗な林業開発試験場に変わっていた。

ホニアラの中心街、旧小川、沖川の河口陣地は全く様相が変わっていた。

十月十五日


昨日の結果に基づいて、それぞれ作業に出る。
新潟班は、福島、宮城班と共に飛行場東側地区の十月二十四日、二十五日(昭和十七年)の夜襲現場へ行く。
テナル河東側ジャングル地帯で初めて遺骨を発見する。既に開墾されたため焼却した林の中で、大木の株に寄せ集めてあったものであり、一人分の遺骨である。


  土民の情報を得て現場に急ぐ(旧飛行場の草原地帯)

二十九年の間、さぞかし淋しかったであろう。異国の丘に草埋もれて眠り続けて来たのだ。
迎えに来たよと全員感動を籠めて収骨をし、思わず涙ぐむ。
間もなく進むとまた一体発見、遺骨を迎えに来たのだという実感がしみじみと出る。心尽くしの慰霊行事をする。ジャングル内に線香の煙が漂ってゆく。他はなかなか見つからない。
この地点はたしか十六連隊が展開攻撃をした地点である。

ジャングルを出るとすぐ広い真平な草原であり、地形もそのとおりである。全員の意見が一致した。非常に海岸に近い平坦地のため戦場整理が行き届いているのだ。
ここにあった遺体は米軍が一括処理をしたと聞いているし、米軍戦誌にも掲載されている。
あの豪雨の闇夜、戦友の背嚢につかまりつつ前進をして、百雷のような銃砲撃の中突っ込んで、遂に突破出来なかった熟鉄の壁があったのだ。
ああこの木、この土、今は何事も無かったように静まりかえって、可憐な草花さえ咲いている。

次に集合場所に集まっていると、土人がプラチナと金歯をセットした七枚そっくりの入れ歯を持って来た早速買おうとすると、二十五ドルでなければ駄目だという。
とんでもない、人の遺骨を金で売るとはと怒りたくなるが、知能の低い土人に何を言っても無駄である。
もっともアメリカ軍が自分達の遺骨収集をしたときは一体一ドル出したそうである。
しかし、これは協力日当かも知れない。遺体引取りを金で換算するなど考えられないことではあるが、仕方ない、その土人は最後には五ドルまで譲歩したが、一体と確認数字に加えて、金も払わなかったし、歯も受け取らないことにした。こんな現地人もいるのだと思うとガ島らしい。

午後三時頃、次の地点として水無川(元野戦第一病院跡)に入った。
ここでは第二師団の患者が治療を求めに行ったところであり、患者休憩の場所であった。
勿論病院と言っても家があるわけではなく、敵の砲爆撃がないというだけで、降雨が無ければ水の無い河川敷である。
ゴロゴロした石の河原であり、河の両岸に大きい葉っぱを乗せて雨をしのぎ、次々と死んで行った悲劇の場所である。

その遺体を数箇所に収容埋歿した。その場所は、現地人が「ここだ」と指をさしてズバリ教えてくれた。
時は夕方であり、自動車を本道において器具も持ってゆかなかったため、木片で少し掘り起こしてみたところ、僅か十糎程度のところから沢山の遺骨が発見された。
翌々日必ず訪れることにして、土人に協力を求め、明後日を期して一旦は引き上げた。

夕食後、各班の本日の結果発表がされたが、各班とも収骨作業の困難さと、目標不明確のため、思うように収骨が出来ない。全員あせりが出て来る。
一応新潟班は水無川には相当数の発掘があるものと期待す。

夕食時、食堂の奥に哀愁をただよわした低音なブラスバンドが始まった。当初誰かテープでも廻しているのかなと思ってよく見たら、黒人のブラスバンドであった。ランプが薄暗いので、色の黒い人達がやっているため判らなかったのである。みんなで大笑いをした。
本十五日の収骨数、二十体とす。


  水無川の作業に協力したギリアン酋長と、六歳の息子


水無川入り口の巨木、生存者には記憶のある懐かしい場所

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