冥府

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冥府の戦友と語る

ガダルカナル島へ上陸

船は昭和十七年十月十四日、ブーゲンビル島エレベンタ(海軍呼称ブイン)に到着するや駆逐艦に乗船し更に闇の夜の海を全速で進む。
制空制海権は完全に敵にあり、厳重な警戒海域を進む。
デッキに立っていると飛沫で南国の海でも肌寒い。
十月十五日午前一時頃島に接近、上陸用舟艇に移り着地上陸した。
艇内で上陸後の作戦命令が下達された。
上陸をしたエスペランス海岸は不気味なほど静かである。

真夜中のジャングルは隣の人も手にふれなければ行動がわからない。
作戦命令の限りではどのような戦闘となるのか敵の想定される兵力装備はわからない。
直後、数分後に思わざる衝撃的な事態がおこった。
第一大隊長、源紫郎少佐が狙い打ちされたかのように、正確な着弾で迫撃砲の直撃弾によって戦死された。
考えられないことである。
これが緒戦の犠牲で先行の戦闘が思いやられる。
翌朝、夜が明けてわかった。
椰子の木に張り巡らされたマイクロホンによって感知されたのである。
当時の日本軍は四号無線器をもって軍機密扱いとしていた。
その波長は十二粁程度のものであった。
米軍の情報機能は既にわが軍の無線交信の傍受は勿論暗号の解読をして我が軍の上陸行動を感知していたのであった。
米軍の近代兵器には底知れないものがあるようだ。
源紫郎大隊長は北支事変より穆稜站に帰還後、寺田秋三大隊長の後任としてノモンハン事変以来温情を慕われ部下の信頼慈父を思わせる方であった。
私は御家族を含めお世話になっていた。

その大隊長がこのように上陸直後に戦死第一号となられた。
単に指揮官を失ったばかりでなく心の支えを失って部隊の志気が殺がれこれから先の戦場が思いやられる。
戦況が混乱すれば部下は指揮官の顔色や一挙一動を見て反応する。
指揮官の人格は敏感に反応する。
大隊長の御遺体は葉梨衛生兵に手伝わせ埋葬、エスペランスのこの地密林の中に静かに眠って貰った。
せめてご遺骨かわりにと「少佐の肩章」をと思い身に付けていたが、誠に申し訳なくも、自分の体力も弱りいつどこかに無くしてお届け出来なかった。
翌朝攻撃地点を目標にして海岸近くの道路をルンガ飛行場を目指した。

    遥か東北方の地点から地面を揺るがすような砲撃の音が体の芯まで伝わってくる。
砲声がやむと何一つ物音が聞こえなく、物静かになる。
一木支隊の攻防戦線からである。
そのとき我々の進む道路上に服は破れ土にまみれた兵が座ったまま泣きながら食物をねだっていた。
一木支隊の兵だろう。
訓練された兵とは思えない、これが日本軍の末路と思うと腹立たしさと、悔しさ、伝えようのない淋しさがよぎった。

しかし、我が身にも置きかえて反省をした。
この兵はどのようにして戦線を離脱したのだろうか、ここまで来る力があれば戦えるのではなかったか。
あの姿がガ島なのか。
日本の現在の姿なのかと想像し、自分を奮い立たせる覚悟を更にした。
我々の携帯した食糧は四日分である。
無くなったらルーズベルト給与だと豪語して意気軒昂であった、合言葉のように。
これが作戦見通しの誤りの一歩であった。

飢餓の島、餓島戦となったのは僅か三日後であった。
戦争は勝つものなりとの思い込みがあった。
未成熟国家の思いあがりと閉鎖性からくる未知からであった。
敵を知り己を知るは百戦の基と云うが、敵を知らず、己もわからない愚かさがあったようだ。 戦闘手段は武力だけではない。
昔から兵糧攻めということもあるのだ。
照りつける太陽と湿度が加わって、異常な気象となり、ジャワで羅病したマラリアが発病した。 三日熱である。
熱い日中に体が震えて止まらない、薬もない苦しいが堪える外はない。
耐え抜いた。
不思議とその後は発病しなかった。

一時は駄目かと思った、人間の体とは不思議な力をもっている。
攻撃目標はルンガ飛行場(正式名はヘンダーソン飛行場)の奪還である。
飛行場の奪還程度と最初から甘く見ていた。
それに米軍の戦闘力については何も知らされてはなく、悲壮感もない。
そして飛行場に対する彼我の戦略的価値についても認識がなかった。
遠くから見えるアウステン山の山頂がなだらかな円を描いた丘の程度に見えた。
あの山を越えて敵の背後から攻撃をすると云う。

これが奪還攻略のためには川口支隊、一木支隊共に敗退しており攻撃には容易ならざるものがあった。
正面攻撃を避け背面攻撃をすることになった経緯については論議が交わされたところであるが、この山を越えるには空から察知されないように工兵隊が密林をドウム型に下草を伐採歩兵部隊の通路を作った。
山越えの夜は闇夜に加えて豪雨であった。
一寸先も見えない、前を行く兵の背嚢に密林の腐食樹に夜光虫がついて光る樹をつけて標識とした。
何か神が恵んでくれた贈り物のように思えた、これで列が繋がった。

豪雨の来襲は恵みの雨でもあった。
葉を丸めて漏斗として水筒に流し入れると忽ち満水となり乾いた喉を潤した。
下り斜面は急峻で歩行困難を極めたが声一つ立てられない機密歩行である。
十月二十一日ルンガ河畔東側に到着した。
ルンガ河は山麓を流れる五十米近い河幅で昨日来の豪雨の為の水量が増し急流となっていた。
流されないように手を繋ぎ合って対岸に渡ることが出来た。
あのとき河を渡った水温、握った戦友の手の感触が今でも想い出される。我々の正常な感覚と行動もここで終わった。

ルンガ河の渡河はまさに現世と彼岸をわける三途の河でもあった。
ガダルカナル島における第二師団の悲劇的な戦闘はむここから始まった。
茲に師団長命令が下達された。

命令要旨
師団は天明神助のご加護により、敵に全く企図を秘匿してアウステン山東側に進出し得たり。 飛行場攻撃X日を十月二十四日と決定する・・・・・・・ と下達した。

茲で状況判断の誤りと作戦の間違いが下達された。
我が軍がアウステン山を越えて山の東側に集結したことは既に米軍の情報網によって全容が察知されていた。
これは後刻になって知り得たことであった。
従って米軍は完璧な防御態勢を構築して一兵たりとも陣地内に寄せ付けず陣地前において撃滅を構えていた。
これらのことは昭和四十六年政府派遣の遺骨収集団に加わって一ヶ月にわたる現地の詳細なる調査によって確かめられた。
頑強なトーチカ陣地、死角の無い計算された防御陣地は完璧なものであった。
三十年前の死闘が繰り返された生々しい戦跡が残っていた。

兵は皆運命に任せ、天佑神助を念じて攻撃成功の自信を持ってあの弾幕の中に突っ込んでいった。
接近するや我々の常識を越えた高性能な火炎放射器は魔獣の如く強力に長距離を火力で炎焼し尽くした。
従って人体は原形が分からない程となり、死体の確認は不可能であった。
飛行場そのものは大日原演習場程度の面積であり、アウステン山麓の景色の良いところであった。
瞬時に天地も焼け落ちるかのような各種銃砲火集中の前に攻撃の術はなかった。
日本軍の戦法を読み綿密に計算された敵の近代兵器には立ち向かえず攻撃は失敗に終わった。

繰り返された突撃は敵陣地まで半歩も届かなかった。
それでも夜を徹して翌二十五日も終日続いた。
昼は弾幕で頭を上げる事は出来ない。
それでも生き残れたのは米軍が積極的に陣地から出て来なかったこと、敵は戦車を使わなかったこと、他は運と偶然である。
二十五日夜があけて弾雨の中、私が兵に指示を出し走り廻っていた為、壕を掘れないで樹根に身を寄せていると、飯塚綿作軍曹が自分の掘った壕に入れと云って私を引きづりこむように自分の掘った壕に入れて自分は壕の外に出た。
その直後飯塚軍曹は銃弾にやられた。

その瞬間私は自分の身に起こったように思った、飯塚君の身替り行為に自分の身をどのように処すればよいのか迷った。
これから先、私は彼のために一生をかけて報いねばならぬと誓った。
初年兵の頃よりなぜか私を慕って弟のように交わって来た飯塚君のことであった。
第一中隊当時から本部付きとなった私の後を追いそばに居てくれた。
彼がこの日無意識、無作為にとったあの行為、人間至情の友情を有難く頂いた。
生き長らえた今日もその延長線上にあるものを毎日忘れることなく貰った命と大切にしていく。

十月二十六日夜を待って密かに連隊長の死体捜索に出たが勿論夜間でもあり静まりかえった戦場は銃砲撃の余燼の匂いのみで死体の判別も出来ずに終わった。
二昼夜にわたる死闘は既に心身共に限界であり食料も尽きた。
呑む水もなく壕の中で切りとった樹木の根を吸って樹液に頼った。
幸いに米軍は陣地を出て攻撃をして来なかった。
或いは全滅をしたものと判断していたのか、みんな生きている感覚は無かった。
那須兵団長、廣安連隊長、各大隊長、各中隊長殆ど戦死である。

無策無謀な戦闘であった。
想定され訓練を重ねた戦場とは全く違った様相であった。
しかし国家民族が生き残るためには仕方がなかったのだ。
こんな小国が世界の大国を相手に挑んだ結果当然の結末なのかもしれない。


この島に生きて 帰れる術はなし

兵黙々と 壕を掘りいる
と私は詠んだ。




後年の昭和四十六年政府派遣の遺骨収集団として参加の際、通稱、血染の丘、小川の陣地で林縁の山肌を手で擦ったらわずかに一米四方程度のところから手の掌に乗り切れない鉄片が採取された。
これが我々に降りかかった銃砲爆撃の鉄量なのであった。
よくぞ生き残れたものと思った。
エスペランス上陸後、攻撃命令の下達される直前、私が源大隊長に同行連隊本部に赴いた際、通常の場合は下達者が一方的に読みながら下達される。

しかしこの場合、川口兵団、一木支隊の問題があり論議された。
大隊長として最古参である源大隊長が発言をされた。
本攻撃作戦については経緯を踏まえて論議されて決定したと聞いておりますが、勿論死力を尽くす以外にないが、武力兵力的にも物理的にも成功の可能性は疑わしい、最良の方法をもう一回検討の要はないでしょうか。
そして廣安連隊長は憤然として源君の云うことはわかるが、ここまで来て我々は命令に基づいて行動する以外に選択肢はないのです・・・で終わった。

やむにやまれぬ各指揮官の胸中は如何ばかりか察するに余りのあるものがあった。
加えて後方にあって大本営の威を笠に辻政信大本営参謀の暴走的無謀な言動には尽くせない憤りをもつものがあった。
何回も重複するが、我々は毎日のこと待っているが一機の友軍機の音すらも聞こえない。 制空、制海権もなく戦闘区域は敵の占領地域を借用しているに等しい。
どう考えてもおかしい。

戦闘をするに武器も食糧も与えないでやれということは・・・
それにしても凡て情勢を知り帰趨も予測していながらも敢えて全軍或いは部隊の先頭に立って死地に飛び込んでゆかれた指揮官の心中、察するに余りある。
あの命令下達の場における論議はこの局面を予測しての提起であったことを改めて認識をした。
兵達の姿もまばら戦場寂として声もなく空しく煙の匂いが立ち込めている。
生き残った我々としても冥土の界に慄然と立ちすくんでいる感じである。
このようなとき心を平静に常人として判断行動出来なければと自分に云い聞かせる。

野田孝次連隊副官が生存者を纏め陣地を撤退した。
或いは、敵はこれを察知していたのかも知れない。
敢えて敗残の兵を追い討ちしなかった米軍も武士の情であったかも知れない。
ノモンハン事変のときも陣地を撤退したが休戦協定という大義名分があり救われた。
食料もなく体力も限界、精神の支えも失いかけている。
我々はこのような極限に立たされたときこそ、どのように処すべきかと教わり鍛えて来た筈である。
凡て整っているときは誰でも臨機応変対応が出来る。

これからどうするのかの判断に迫られている。
その答えは死力を尽くして逝くなった戦友に叱られないように継続する戦線に立つしかない。
これがため踏破して来たアウステン山を逆行して海岸線に新たな陣地を構築して戦線を展開することだ。
我々に与えられた任務が達成出来るのか。
黙々と足をひきづってゆく、兵たちは元気を失っている。
山を登り中腹に辿りつき休憩で倒れるように寝ころんだ。
夜明を待った、みんな死んだように幾日分かの眠りをむさぼった。

寝つきの頃、私の隣に寝ていた佐渡郡姫津出身の主計下士官、今井浅次郎が突然「痛い、痛い!!」と大声を出して苦しみ出した。
背中が痛いと云う。
寝返りをさせたら大きなムカデが二匹出て来た。
牡と牝であるらしい(約十五糎の大きさ)。
彼はこれにかまれたのだ。
一晩中苦しんだがお昼頃おさまった。

夜が明けた、その時突然、しかもスーっと自然に湧いたかのように前方の岩頭に真新しい軍服の将校が立った。
軍刀を立てて、我々には輝くように見えた。
廣安連隊長の後任である。
陸軍大佐、堺吉嗣連隊長であった。
廣安連隊長は十月二十四日、飛行場攻撃で戦死され、十月二十九日短時日にアウステン山に立たれたのである。
その迅速さに驚いた。

その第一声は「私が廣安大佐の後任として指揮をとる堺である。」
そして私共の姿を見て
「お前達のその姿はなんだ、最後の気力と体力をふりしぼって私について来い」
と甲高い声で叱咤激励をされた。
後述になるが堺連隊長はこの後、敗戦、祖国帰還、復員完結、解隊と一貫して一糸乱れない統率をされ完結処理をされた。
その徳力と信頼関係によるものであった。
尚、ガダルカナル島の撤退作戦も異例の詔勅によるものであったが最後まで統率を乱さず指揮をされた。

堺連隊長は廣安連隊長と似通った鼻髭を立てておられた。
あの髭の中からやさしい言葉がかけられ部下にも気軽に話しかけられた。
その後、堺連隊長はビルマ、イワラジ河畔の戦闘で負傷され野戦病院に入院した。
その間、僅かな期間井上晴男大佐が着任されたが、堺大佐は退院されると再び十六連隊長として復帰された。
珍しいことである。
我々には、父帰るという感動を籠めてのお迎えをした。
堺連隊長自らの希望でもあったらしい。

堺連隊長がアウステン山で初めて我々に逢ったとき目に映った姿は我々が前進中一木支隊の兵に逢ったときと同様に映ったらしい。
後年、私が連隊本部付になったとき述壊されて、あの山腹で拝命のときガ島の状況は予め聞いてはいたが現実に姿を目の前にして、あまりにも弱り切っていることに絶句して思わず厳しい言葉であったが心を鬼にして云ったのだと仰った。
我々はアウステン山越えをするに際しては動ける者、弱っている者、負傷者を介護してながら一緒に歩いて、昭和十七年十一月二十日ようやく海岸線に辿りついた。
飛行場攻撃の二十日後になる。
米軍は追撃して来なかったが我々の行動を察してマタニコウ河を渡って先廻りをして血染めの丘で待っていたのであった。

海岸線に出て戦闘は新たな戦線が展開された。
負傷病者の殆どは前線陣地より二十粁程度後方の水無川の野戦病院に担送或いは歩行入院をした。
野戦病院と云っても建物があるわけでなく、敵の銃砲撃を避けられる水無川の岸壁や河畔を利用している。
多くの戦友がここで命を落としたところとなった。
海岸から少し入ったところで雨水が多いときは川になるが平素は川の形はあるが谷間のようになって周辺は密林で覆われている。
我々が反転して布陣をしたところはルンガ岬の見える沖川陣地と名づけた、ここは小休止であった。

十一月十四日、撤退する一木支隊の兵と逢ったのはこの辺りであった。
昨日は人の身、今日は我が身の運命である。
我々の携帯口糧は尽きている。
弾薬資材も欲しいが食糧が緊急の問題である。
海岸線に到達して久しぶりで昼の静かなひと時を得た。
久しぶりで椰子林をはずれた太陽のあたる崖下に集まった。

新発田市出身の中村勤軍曹、佐渡郡岩首出身の中村諦一郎曹長、中蒲原郡鹿峠出身の飯塚綿作軍曹、気のおけない戦友である。
幾日ぶりかで笑顔が見られた。
故郷の梨畑の冷たい水、餅、お菓子、等の食い物の話の花が咲き空腹を紛らわせて楽しんでいた。
そのときどのように探知されたのか、我々の車座になっている眞中に迫撃砲が射ちこまれた。 同時に全員が仰向けに倒れた。
楽しい場が修羅場と化した。
中村(諦)曹長は即死、飯塚軍曹は飛行場での負傷もあり歩行入院、中村勤軍曹は即死、私一人が助かった。
何でこんなことになったのだろう。
わからない。

泣いても、悲しんでもどうにもならないが、これを機に死のこだわりを捨てた。
この出来事が偶然とは云えない気がして終生私の脳裏から消え去ることがなくなった。
的は何故、我々の集まっているところを狙ったのだろう、場所としても簡単に発見されるところではない。
十月二十六日以降我々が飛行場陣地より撤退するや敵も陣地変更をして対陣しての結果、補足されたのであろう。
ガ島戦線が熾烈、困窮、困迷を深めたとき、あの飛行場攻撃の時点でむしろ一緒に逝ったのがよかったと思うことがしばしばあった。
みんなもそんなことを考えたことだと思えた。

十一月十五日密林の夜が明けた。
夜明けを待っていたように海上から艦砲射撃が地軸を揺るがすように撃ち込まれる。
直撃弾が当たれば体全体が吹き飛んでわからなくなる。
血染めの丘方面からは野砲、迫撃砲、銃撃、空からは頭上スレスレに掃射される。
操縦士の顔が見え、対話が出来る程である。
手を振るわけにはゆかない、飛び去れば若干移動することが安全である。
迫撃砲を誘導射ち込みをされるからだ。
小銃で飛行機を狙い射ちをしてもよいが報復射撃か報爆をされるだろう。
ジート我慢である。

今死ぬか、今度死ぬかの緊張が終日続く。
相当に神経も細ってゆくようだ。
夜が来るとようやく静かになって自分に立ち返って静かな時間となる。
日毎、兵力は損耗してゆく。
今夜は移動をして小川の線へゆく。
ここが連隊最後の陣地として踏みとどまったところとなる。
暗くなると地形がわからなくので昼間、敵の動向を見て密林を縫うようにして移動をした。
次々と落伍をした負傷兵の数が多くなった。
飛行場攻撃で傷ついた人々である。

一人で後方の野戦病院(野戦病院と云っても水無川の崖間に草を敷いたばかりで敵の銃砲撃が届かないだけの露天)へ向かうのである。
前記した飯塚綿作軍曹も一人歩行で野戦病院へ向かう後姿を見送った。
せめて従いてゆくべきであったが任務を離れてゆくことは出来なかった。
幽明流れを異にする別れであった。
ご冥福を祈る。

一人で行ける者、行けないで適宜のところで止まる者、本隊と共にトボトボ歩きで従いて来る者、みんな体力による行動となった。
小川陣地に着く前の岩陰に身を寄せていた同じ町出身の先輩、富樫角次郎曹長に逢った。
「どうしました富樫曹長殿」と声を掛けると「いや俺はこのとおり目をやられて動けない、体力も駄目だ、構わずに先へ行ってくれ。俺はここで死ぬしかない、もし故郷に帰ることがあったら伝えて貰いたい。」
なんとか助ける方法は無いかと考えたが状況がこれを許さない。

あれほど頑健な体躯をして剣術の試合等も相手をして貰った思い出がよぎる。
青年時代からの友達でもある。
伝え残す者、云われる者、戦場という特殊な環境の中であっても普通の神経では耐えれない。
どんな心境であったであろう。
当時を思い出すと胸が痛む、同村出身の先輩だけに苦しく悔いの残ったことであった。
特に戦後生き残っり年を重ねるに従って、一層その想いが強くなる。

前記の富樫角次郎氏と別れ五十米程離れたところに私を呼ぶ人が居た、「私は長谷川曹長殿をよく知っています。自分は蓮野小学校(自分の母校)の前の田中栄一と云います。もう動く事が出来なくなりました。ここで死ぬことになります。もしも故郷へ帰ることがあったら、このことをお伝えお願いします。」と・・・
富樫曹長と同じことを、二人共極めて冷静に話された。
ガダルカナル島戦の撤退後、私は連隊本部付となり、戦病死者、撤退時残置兵員の始末等全員の処理をした。
この中で米軍に収容され帰還出来た人意外は死亡となった。
富樫角次郎氏も田中栄一氏も米軍に収容されていなかった。
おそらく、それ以前に病死されたことになる。

それにしても両君とも立派な死を悟った態度に深く感銘を受けた。
町民全部にも伝えたい。
このように多くの戦友は叶わぬことと諦めながらも頼みたいこと、訴えたいことがあったであろうに全く孤独で死んで逝ったのである。
帰国後のことになるがお二人のことはご遺族へ事実を確実にお伝えしてご冥福をお祈りした。




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