冥府

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冥府の戦友と語る

ジャワ島作戦

二月十五日佛印カムラン湾に投錨した。
カムラン湾は過ぐる日露戦争のとき日本海海戦に向かうロシアのバルチック艦隊が集結態勢を整えたところと聞いている。
また、昭和二十一年我々が敗戦を佛印で迎え、故国帰するに際しサンジャック港を出港してこの港を通った因縁の海である。
投錨後どこからともなく船舶が終結し四十二隻の輸送船団となった。

第一大隊は我が国で唯一の船と云われていた上陸作戦専用の龍城丸に乗船替えをした。
第十六軍司令官、今村均大将が乗船指揮をとる旗船であった。
奇しくも今村大将は新潟県立新発田中学校(現新発田高校)の卒業生であり、我が十六連隊の原駐地との縁があった。
十六連隊第一大隊の乗船は今村閣下自らの指名があったやに伺っている。

第一大隊長、源紫郎少佐が輸送指揮官となり私が輸送指揮官書記に任命された。
本船は十六軍司令部と同乗各種機材も搭載された。
乗船が完了するや攻撃命令が下達された。
カムラン湾からバンタム湾まではあまり時間がかからない。
上陸地点はバンタム湾のボンジョネゴロと云う地点である。
第一大隊は軍の直轄となり上陸後の攻略目標はバンドンである。
船団の両側に駆逐艦がピッシリと護衛している。
心強い戦闘体制でいささかの危惧も感じなかった。

平静と自信を保たれた上陸戦であった。
しかし想えばこの上陸戦でなぜ航空機が両軍とも参加していなかった、これが腑に落ちないところであった。
バンタム湾に侵入するまでは無事平穏であった。
しかし愈々湾内に差しかかると湾内に待ち構えていた敵艦は一斉に火を吹いた。
闇夜を貫いて閃光が走り海戦が展開された。
敵艦は海洋に出ないで湾内に待機していたのだった。
海戦は我々陸軍部隊はどうすることも出来ない。
我が軍の艦船には損傷がなく、敵艦が炎を上げて沈んでゆくのが見える。

みんな新潟の川祭りを見ているようだと兵ははしゃいだ。
こんなとき我々の乗船龍城丸の船底に大音響が起こった。
体も飛び上がる程の衝撃があった。
魚雷が命中したのだ。
多い艦船の中でなぜ龍城丸のみを狙い定めて攻撃されたのだろうか。
後日談ではあるが龍城丸の船員がスパイであったとか、信義の程はわからない。
船体は急速に傾いていった。
一時は沈没するのかと動揺狼狽をした。

船は急遽海岸を目がけて全速力で進み擱座をして沈没を免れた。
その間ポンポンと海へ飛び込む者がいる。
船室によって判断が違った。
船底とか船首の場合角度が急に傾いて危険を感じたと思う。
我々のところは中央中腹であり船腹にとどまれたのであった。

上陸地点であったボンジョネゴロに私は戦後二回訪れた。
一回目は擱座した龍城丸は往時の姿で沖合いに傾いたままさざ波を受けていた。
二回目は五十年後という年数のため、すっかり除去されて他の航行の妨げにならないように姿は見えなかった。
海岸にはインドネシア国のカンパニー、プラタミナ製油施設が間隙もない程に建築物でいっぱいであり、全部石油関連の施設であった。
終戦後の昭和六十年我が町に新潟東港が造成され、そのその背後地に東北電力の火力発電所が立地した。
これに供給する液化天然瓦斯をプラタミナカンパニーより年間二九〇万トンを導入しているが為に交流が始まったサイデーマン同社長に知己を得て親交を深めた。
同氏は私が当時この地に上陸をした職業軍人であったことも知っておられた。

思えば大東亜戦争の意義も充分籠められた国益に資せられたことを考え、感更なるものがあった。
我が連隊のジャワ作戦は上陸時における魚雷戦と第三大隊のリューリィアンの河畔戦のみであった。
我々の上陸に際しては予想外とも云えるインドネシア人の歓迎を受けた。
現地の人達は海岸線に人垣を築いてインドネシア特有の親指を抜き出して高く上げ、ジョンポールと声高らかに親愛の情を示してくれた。
上陸後のどが乾いて椰子の実が欲しいと云ったら、この現地の人達がスルスルと木に登り実をとってよろこんでサービスしてくれた。
我々の戦争相手はイドネシア人ではなくオランダ人なのである。

インドネシアは永い世紀にわたりオランダ人の植民地として統治されて来た悲劇の民族である。
インドネシアには伝説として、いつの日か東の国から神の兵が来て我々を解放してくれると信じていたという。
その日が来たのである。
我が軍を神の兵として歓迎してくれようだ。
国土があっても異民族によってその富を奪われ、人権を抑圧され、しかも三百年も永い間苦しめられて来たのである。
どんなにか自由・自活が欲しかったことであろうに。
日本軍が進駐することによって解放されたことは事実であるが、日本は敗戦によって大義名分とうけとれなかったようである。
国際社会の秩序とは難しい。

上陸後、日本の軍政は今村閣下の統治のもと軍律厳しく、現地国民との信頼も深く結ばれ、明るく良好な将来が見透かされた感があったが、ここでは尽くしく得ない。
攻撃目標バンドンへの道は遠かった。
第三大隊はボゴール州リューリィアンのチンプラン河畔に防御施設を構築していたオランダ軍と交戦、配属部隊を含めて七十名余りの犠牲者を出した。
他の部隊は敵と遭遇することもなくそれぞれ目標地点に到達占領した。
それにしても我が軍の装備は自転車部隊やリヤカー部隊等で国外まで遠征をした幼稚なものだった。

ノモンハン事変の教訓は何も生かされていなかった。
オランダ軍は車輌をはじめ近代装備が整っていた。
彼等からみた日本軍は奇異に感じたことだろう。
もっとも日本が刀を廃して軍隊の形を整えるためヨーロッパに習ったのは明治維新後の最近のことになる。
それにしてもオランダ軍はなぜ簡単に降伏したのだろうか合点がゆかない。
統率権のトラブルに起因があったとか、武装以上に恐ろしい弱点があるものだ。
余程に致命的な要因があってのことだろう。

我が国が鎖国政策から目が醒めたとき、国家の近代化をはかるには産業構造をはじめ、あらゆる経済の転換を迫られた。
しかれども必要とする資源はなし技術はない、周辺国家や遠くヨーロッパを見れば国際化に遅れること甚だしく、特に資源国である東南アジアの一帯は植民地化されて資源をはじめ銃得権の壁は固く国際外交の場に立てなかったのである。
先進国によって占められていた権益の壁は厚かったのである。
我が国が進歩したときは既に遅かった。
本作戦に立ってオランダ軍の構えを目にして国力を支える差を思い知らされ油断のならないものを感じた。

中国の膨大なる広大さ、異常なエネルギー、古来より四海を制覇して来たイギリス、アメリカ、これらが敵なのである。
今戦っているオランダ軍の状況で安心出来ない。
あのヨーロッパ大陸で生き抜いて来た国である。
油断はならない。

第二大隊のリュウリィアン戦闘の詳細もわかった、第九中隊長、伊藤今朝長大尉も戦死。
私が入隊した第一中隊の隊付で薫陶を受けた謹厳実直な小隊長であった。
戦後五十四年の平成十一年九月この地に新発田歩兵第十六連隊戦友会で私が会長として「新発田歩兵第十六連隊戦没者慰霊碑」を建立した。
ボゴール州リュリィアン、チンプラン河畔敷地の激戦地跡である。
遅きに失し戦友に済まなかった。
大東亜戦争の第一号の戦死者であった。
その数七十余名。

大東亜戦争の先は遠く険しくなるところではあるが先の苦難は予知出来なかった。
温暖で暮らし易いジャワの心地よさが戦局の先行きを甘く見たのであろう。
一部内地への帰還説まで飛び出した。
バンドンで拘束したオランダ軍の捕虜で大阪の商船学校を卒業したという将校が上手な日本語で恐れることもなく昂然と云った。
現在の日本の国力では連合軍に勝てる筈がないと断言した。
我々は複雑な思いで耳を傾けた。
心の中ではそうなるかも知れない。

中国戦線、ノモンハン事変を経験して日本軍の総合的な武力戦闘力を考えるとき、また茲に降伏をしたオランダ軍にしても、その力は本国に温存されている底知れないものがあることを知らねばならない。
まして米英のことを考えれば先程のオランダ将校の談話は誇張ではなく是認せざるを得ないと思う。
しかし、ここで認める訳にはゆかないのだ。
この地における戦勝のよろこびもこれまで事実はオランダ将校談話のとおり進むのであった。
大東亜戦争緒戦の地を後に更なる戦場を目指して進むことになる。




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