冥府

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続・越佐健児の石碑(いしぶみ) 第四部 さむらい達の片言集(アイウエオ順)

再生保存会の一員としての感慨


秋山 祐作

今年二〇一〇年(平成二十二年)八月、西公園の一隅に「新発田歩兵第十六連隊軍旗奉焼之碑」が建立されました。
これは元歩兵第十六連隊生存者有志の執念ともいうべき軍旗に対する、並々ならぬ思いによるもの、その当時軍旗とは、即ち天皇陛下でした。
十六連隊の軍旗は一八八七年(明治十七年)宮中にて拝受された。
明治十七年はフランス軍がベトナムに進攻、清仏戦争が始まった年です。
日本も危機感を抱いたことでしょう。

富国強兵の始まり。そして十年後、
一八九四年(明治二十七年) 日清戦争。
そして十年後、
一九〇四年(明治三十九年) 日露戦争。 そして十四年後、
一九一八年(大正 七年) シベリア出兵。
そして十三年後、
一九三一年(昭和 六年) 満州事変。
さらに、六年後の、
一九三七年(昭和十二年) 日華事変。
事変の終結を見ずに、四年後、
一九四一年(昭和十六年) 太平洋戦争。

我が郷土部隊第十六連隊と軍旗は、それぞれの戦役に参戦しました。
一九四五年(昭和二十年) 終戦 軍旗奉焼。
明治十七年軍旗拝受から、六十一年目で、奉焼したことになります。
何やら、人の還暦六十歳定年と重なるようです。
海軍は如何でしょうか。

一八六四年勝海舟が始めた、神戸の海軍操練所(NHKドラマ「龍馬伝」でお馴染み)が日本海軍の始まりである、とすれば、四十一年経て一九〇五年(明治三十八年)日本海に進出してきた、ロシアのバルチック艦隊を、東郷連合艦隊司令官の率いる日本海軍が、これを撃滅した。

所謂、日本海海戦です。
以来、戦艦大和、武蔵、零戰等、建造増強してきたが、一九四五年終戦、日本海海戦から、四十年で日本帝国海軍は消滅しました。
数字を並べ、年を数えてきました。
昭和二十年終戦から戦後の六十五年という、この平和な時代の永さの重みが痛感できると思います。

何れにしても明治維新以来何と、慌しく戦争に明け暮れていたことか。
この度「軍旗奉焼之碑」の建立にあたり、戦後六十五年もの永い間平和であったのは、各戦役で亡くなられた英霊の賜物と感謝し、この西公園に佇むとき、慰霊塔・碑群に、幾多の英霊を想い、戦争のない平和な時代に活きていることの幸せを感ずる場であって欲しい、と願うものです。(平成二十二年八月二十三日 記)





太平洋戦争を顧みて


小川 利行

一、 はじめに
太平洋戦争が終結して既に六十五年、戦争を知らない人たちが八〇%に達しようとしている現在の平和国家日本にあって、唯一戦争体験者として過ぎし日の思い出の一部を記録にとどめ後世の参考にでもなれば幸いと筆を執りました。
顧みて戦争の開始、そして集結に関しましては戦後様々に論ぜられております。
ここで更に天下国家を論ずることなく簡潔に申しますならば、太平洋戦争は自国の自衛上止むに止まれぬ戦争だったと称され、昭和二十年八月六日広島の原爆投下を呉港で体験、続いて二弾目が長崎と、戦争継続への止めをさされ、八月十五日の終戦となりました。

戦後の東京裁判も戦勝国が勝手にやった裁判であり、当時に於いてインドのパール博士がこの裁判の国際的是非を問い無効を称えて争っており、今ではパール博士の正当性が尊重されるようになっております。
既に靖国神社に於きましてはABC級戦犯は国の殉難者として戦死者同様の祭祀を受けておりますが、これに反対する中国・韓国方面からの圧力で、日本国首相が参拝を拒否している事が何としても理解出来ず、悔やまれてなりません。
たとえ何年かかろうとも国に殉じた人々の功を永久に伝えてゆくべく国家首相が先頭を切って参拝する様願うものです。


二、 戦争体験「潜水艦乗組聴音兵」として
昭和十七年五月一日舞鶴海兵団に入団、新兵教育三ヶ月を経て横須賀海軍機雷学校に入港、水中測的普通科教育八ヶ月、厳しい学科訓練に明け暮れ、十八年三月末卒業、舞鶴海軍防備隊へ転任となる。
ここで連合艦隊司令長官、山本五十六大将戦死の公報を知りただならぬものを感じたものでした。
更なる驚きは五月末わずか二ヶ月の勤務で「海軍潜水学校」入校を命ぜられた事です。
防備隊内での噂によれば潜水学校は殺される目に遭うところとのこと。
強いショックを受けましたが、命令に従うの外なく勇躍して呉の「海軍潜水学校」の校門をくぐりました。

潜水艦と聴音兵、一艦の目や耳の役目を担当する重要な任務を負い、潜水艦構造の総てを学び、更には潜水艦魂を磨く血の出るような四ヶ月間でありました。
軍神佐久間艦長を祭る第六号艇神社に礼拝し心身共に鍛え上げて行ったのです。


三、 呂号第四十三潜水艦にて南太平洋海域へ
昭和十八年九月末日、潜水学校を卒業して神戸へ、三菱重工神戸造船所で艤装中の呂四十三潜乗組となりました。
市内の海軍宿舎から艦に通い十二月六日完成したのです。
初代艦長西松張男少佐以下七十八名この日から瀬戸内海で昼夜分かたぬ猛訓練が始まりました。
先ずここに呂四十三潜の五回に亘る南太平洋への出撃状況をまとめておきます。

第一回出撃
昭和十九年三月十一日、呉港よりガ島方面哨戒海域負浮力タンク空気排水弁爆発、トラック島に立ち寄るも修理不可、四月九日舞鶴港に帰投修理す。艦長退艦。

第二回出撃
同年六月四日、舞鶴港発、サイパン島南方哨戒海域へ、二代目艦長月形正気海軍大尉。
六月十一日早朝サイパン島へ入港するも午後より米軍機動部隊の空襲あり「玉砕戰」へと連なる。
指定哨戒海域にて真夜中米軍駆逐艦の電探に補足され、機雷攻撃を受けて海底地獄の苦しみを受け戦闘不能となる。
二十六日舞鶴港に帰投し修理す。(詳細は別項にて)

第三回出撃
同年九月十七日、舞鶴港発、パラオ島南東哨戒海域へ。
途中命令変更、米軍比島逆襲情報ありハルマヘラ島海域まで南下偵察せよとなり目的地に向かうも敵船団との遭遇もなく、帰途につくも敵に会わねば台湾沖縄間海域で大型台風に遭遇し、十月十四日呉港に帰投す。

第四回出撃
同年十月十九日、何と非情な緊急命令下る。
本艦は五日間にて応急修理、燃料食糧真水の搭載し、出撃せよとのこと。
今迄に体験したことのない多忙に追われ定刻呉港潜水艦桟橋を万歳万歳に見送られ、比島レイテ湾東方海域へと向かった。
既に米軍機動部隊の逆襲あり。
我が方戦艦武蔵をはじめ多数艦船が撃沈されたレイテ沖激戦海域でありました。
無事に任を果たし十一月十六日佐世保港帰投。

第五回出撃
同年十二月八日、佐世保港発、比島マニラ東方哨戒海域へ出撃。
同海で水中聴音による米軍大輸送船団を補足、艦隊司令部に報告し作戦上に貢献したものと考える。
同海域での任務を終了し年も変って昭和二十年一月七日日本海荒海を乗り越え母港舞鶴港へ帰投す。
昭和二十年一月二十二日、重大事故発生す。
舞鶴海軍工廠にて私が右足を熱湯にて大火傷を負い退艦舞鶴海軍潜水艦基地隊病室に入室となり潜水艦生活が終わりました。

第六回出撃
昭和二十年二月十六日、舞鶴港発呉港を経由して硫黄島方面へ。
舞鶴港を離れる呂四十三潜水艦を病室の窓辺から涙しながら見送ったのが今生この世の最後になろうとは。

戦後に日米合同の作戦上の不明点を調査し分かったことは、二月二十一日硫黄島東南海域にて呂四十三潜が魚雷攻撃で米駆逐艦レンシヨーを撃破しており、そのあと二月二十七日米空母アンチオ発進の哨戒機により呂四十三潜は撃沈されたことが分かりました。
多くの潜水艦が音信不通、行方不明で幕を閉じております中、呂四十三潜の最後が「日本海軍潜水艦史」に記載されており亡き戦友を弔う最高の記録となりました。
又私一人がこの世に残された事も不思議でなりません。


別項「海底地獄からの生還」
呂四十三潜の五回に亘る出撃中の出来事は忘れ得ぬものであるが、中でも第二回出撃のサイパン島玉砕戦では、駆逐艦の爆雷攻撃に遭い、地獄の船内を味わい、この世の最後を覚悟したことでした。
米駆逐艦の新兵器電波探知機に補足され、夜の十一時真暗闇の海上航行中、砲撃を受けたが幸い百米前方に落下、急速潜航、水中聴音の出番です。

刻々と近づく敵駆逐艦の様子を司令塔の艦長に報告です。
音源が耳に痛いほどの接近で聴音機電源を切るや、何秒を待たずして艦の右舷方向から地上での雷を体験しているが、今にも鉄板が引き裂かれるような爆雷攻撃には正に海底地獄、本艦頭上の海洋に円陣に廻って一回五、六発の爆雷を投下してゆく。
いよいよこの世の最後かと覚悟した時またまた強烈な艦が引き裂かれるが如き爆発音に艦内電灯がやられて真暗三、四秒失神状態。
艦は百米の危険水域の潜航、爆雷にやられるか、水圧にやられるかのところ、我に返り艦内から水、水の声が聞かれず、助かった。
思わず手を合わせました。

敵艦も必死の爆雷攻撃、本艦の頭上を左に越し、危機を免れ、左へ左へと去ったのです。
呂四十三潜は始めて爆雷攻撃を体験したが、次に待つものは夜明けとなれば水上に出られず、潜航のまま翌日夕刻も過ぎ八時迄の二十二時間、遂に艦内の酸素欠乏の艦内地獄を体験しました。
艦長も兵も同じ艦内の濁った空気の中で頑張りました。
パッとハッチが開かれ、新しい空気を胸一杯吸い込んだ喜びは今も忘れません。

英霊の供養に生涯を捧げて
平成九年、海交会全国連合会の新潟県海交会長拝命以来、靖国神社春秋の例大祭に参列し、又母港舞鶴港に平成元年舞鎮戦没者慰霊碑が設立され、十月下旬の例大祭に出席を続けております。
更に地元新発田市では旧海軍有志の集いである「海友会」が昭和四十九年に設立され、昭和六十一年五月三日の越佐招魂祭より「海友会の団体参拝」が実施されており、既に二十五年の歳月が経過いたしております。
陸海空の幾多将兵が尊い命を国に捧げておられ、この功を永く顕彰せねばなりません。

明治天皇御製に

世とともに 語り伝えよ 国のため
  今をすてし 人の功を

とあります。


越佐招魂祭も高齢化による参加者の減少は止むを得ないが、生き残った我々が生涯をかけてご英霊の供養に勤めねばなりません。
現在の平和国家日本があることは、幾多尊い命を捧げられた英霊のあればこそと、若い世代に伝えていかねばなりません。
十万人余新発田市民の聖地として、西公園の塔碑が永遠に守られていくことを祈りて。



招魂社  思いつくまま


池田 壽也

今朝も私と家内の足は招魂社へ向かっていた。
朝のジョギングを健康保持のためにと続けてきたが、最近は、寄る年波で歩くことにした。
それでも気分爽快になるんだと言いながらごく平凡な毎日を過ごしてきた。
走るも歩くも、やはり目標は招魂社前のラジオ体操である。
もと歩兵十六聯隊の営前連兵場が、今は様変わりして城址公園となっており、昔懐かしい五本松は二本の銀杏と合わせて、その面影を残している。

毎日歩いていて淋しいなぁと思いながら招魂社前まで足を向けた。
越佐招魂碑(子どもの頃から忠霊塔と馴染んできた)を真正面に見る中央入口前が、私達の定位置である。
時間になると近隣から同好の人達が参集し、一緒にラジオ体操をして、今日一日の元気の源とした。

私は思う。
子ども時代から招魂社に対する愛着心が、自然と西公園に足を向けるのだと。
子どもの頃、五月三日からの招魂社のお祭りには小学校から帰ると、親から、わずかの小遣い銭を貰って招魂社に走ったものだ。
軍隊の塀が巡らした外ヶ輪裏から築留の約二キロの道を往復したものだった。
何を買ったか、口に入れたか定かではないが、子どもは祭りが大好きというのは昔も今も変らない。

私の家内は、加治川橋の先の集落の出身で、女学校(今の西新発田高校)に四年間通学するには、いやおうなしで招魂社前を通ることになっていたので、私よりも地理案内は承知というところで、縁あって一緒になり、今こうして小走りしたり歩いたりしながら、ゴールを招魂社にしたのは、ごく自然だったなぁと思っている。
ただ招魂社にだけしか目が向かなかったことではあるが。

戦後、混迷の時代から立ち上がって、お互いの人生を歩んできた現役時代は、これも、それなりの充実した人生だった。
今はリタイヤしてからの人生のほうが長寿を楽しむ時代となった。
健康第一を目標とするこの頃である。
歩くも走るもそのためだと思っている。
旧制新発田中学から、軍人指向の時代に乗って陸士への道を進んだ。
畑山氏と同じ釜の飯の仲である。

戦後は、軍人とソロバンは相容れない時代から一転して、銀行という道を選んだわけだが、在職中の忘れ得ない想い出を一点だけ紹介しておきたい。
埼玉県での支店長のとき、畑山氏は、当時あこがれた市ヶ谷の陸軍士官学校跡地の自衛隊司令をしておられた。
その日は演習地出発の日であった。
その多忙な時間に私は表敬訪問する機会を与えて貰った。
正面から公用車で、あの有名なダンゴ坂を登り切って、本部前で畑山司令の出迎えを受けたことは、同期の誼を強く感じたものである。
帰りには演習携行食をいただいてダンゴ坂をあとにした。

時移り、旧陸士出身者の全国組織「皆行会」のもと、県単位の会に一会員として参加してきた。
また、熱心な先輩の声掛かりで阿賀北皆行会が組織され、県北の陸士出身者の会として活動してきた。
招魂際への出席もその時からである。
式辞に長谷川栄作氏のガダルカナルにおける勇戦奮闘ぶりを知った私は胸を打つものを禁じ得なかった。
平成三年三月に、長谷川氏、畑山氏の熱意と努力により西公園塔・碑保存会が設立されて、平成七年八月に「越佐健児の石碑(いしぶみ)」が刊行されたことは先刻承知のとおりである。

このたび、畑山代表主導により再生新発田西公園塔・碑保存会が組織された。
その趣意は、塔・碑の環境整備と「軍旗奉焼之碑」建立を目的とするもので、塔・碑の損壊が進み修繕の時期にあることを、実際に現地を見てその感を強くした。
そして、新発田十六聯隊の「軍旗奉焼之碑」はバゴダの塔の右手前東向きに建立されることになった。
後日、西公園の塔・碑群を見て回った。
バゴタの塔もキレイに修復されたし、長谷川栄作氏揮毫による「軍旗奉焼之碑」が新たにお目見えした。

これからは、再生塔・碑保存会は更に高齢化が進みゆく過程での実質的活動故はできないだろうとの合意をみて、行政の考え方に任せてゆくこととなった。
具体的には、本年六月市議会において議員の質問に答えて次のような市長発言が行われた。
---福祉公園と西公園の一体的活用が可能な整備の準備をする---ことを見届けてゆくことだと思う。
私は、これからも命ある限り、西公園(招魂社)の施設群を愛してゆきたい。






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