冥府

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終戦の地に思いを寄せて


島津 憲一

この書簡は太平洋戦争終息六十周年に因んで終戦の地山口県熊毛郡平生町町長山田健一様に差し上げものです。

今年も八月十五日がめぐってまいります。
生・死あと残された僅かな時間、昭和二十年八月十五日、私は山口県熊毛郡佐賀村で終戦を迎えました。
昭和二十年五月掌特攻兵として志願・選抜され、鳥取県美保海軍航空隊十四期甲種飛行予科練習生より、大竹海軍潜水学校柳井分校に鮫龍搭乗員として転属になりました。
赴任前に故郷への帰省休暇が与えられました。
事実上の暇ごいでした。

私は新潟県新発田市(当時は町)出身で当時は交通の便も悪く折角の帰省も一日の滞在で翌日帰隊の途につきました。
家では父が二回目の応召で北朝鮮の羅南に出征(ソ連参戦でシベリア抑留、昭和二十三年復員)祖母、母、妹(学徒動員)弟(小学生)の四人で生活も大変だったと思います。
柳井分校では六月一日から八月二十四日までの大変短い期間の在隊でした。
隣地には人間魚雷「回天」の基地があり、塀で囲まれ、私共鮫龍搭乗員の練習隊とは区切られておりました。

運命の八月十五日終戦。
よく聞き取れない詔勅に涙し、悲嘆にくれました。
司令の命令で解隊、柳井駅より各々故郷へと復員いたしましたが、十代の憂国の士を任じていた若者にとっては大変悔しい思いをいたしました。
隊長より「貴様達は若い前途有望な青年(少年)だ、一刻も早く帰って日本再建のためしっかりと頑張ってほしい」と諭され、血肉分けた戦友と別れ、帰途につきました。

それから六十年色々なことがありました。
当時の戦友達はもう皆八十歳前後になりました。
元気なうちに想い出の地、平生へとおもい十数年前御地を訪問、岩谷修作様、番谷様?のご案内で往時を偲ぶことが出来ました。
訪問前日、柳井の町を散策しました折、柳井に金魚提灯があることを知りました。
当市にも昔からお盆に金魚台輪を子ども達が引いてお墓参りに行ったものです。
今ではお祭りに大小沢山の金魚台輪が企業、町内から出て新発田のまつりに賑わいを添えています。

お送りしました二個の金魚台輪は、数年前に再度御地を訪問の予定でお土産として持っていく予定のものでしたが台風に遭遇、果たせませんでした。
その時のものです。
戦後六十年、平和であった幸せを喜び謹んでお贈りいたします。
記念館には前に終戦の時私が持ち帰った蚊帳が保管してあると聞いております。
冒頭にも申しましたが平生に生き残った幸せを心に秘め、平生町の益々の発展と山田町長様はじめ地域の皆様のご多幸を祈念し六十年の思いとさせていただきます。
(平成十七年七月二十六日)





鮫龍(甲標的丁型)の出現
十九年から米軍の構成は益々熾烈となり、前線基地を問わず防禦態勢を取らざるを得なくなった。
又、連合国側に政海権制空権を奪われている状況下では、水上艦艇の行動は極めて困難となっていた。
しかし、水中を活躍の場とし抗堪性のある潜水艦を所要数整備しようとすると、多くの資材が必要であり、又多数の乗員の養成に問題があるので、小型潜水隊の建造と甲標的の性能向上が真剣に考えられてきた。
その結果、出来上がったものが甲標的丁型(後に鮫竜と称す)で航続距離も倍増し乗員は五名となった。
(特攻隊慰霊顕彰会の資料より抜粋)


国敗れて山河あり


長谷川栄作

異国の戦野で十一ヶ年にわたり国家、民族、同胞を護る使命を課せられ生と死の極限に堪え、心身共に満身創痍となり故国に帰った。
この間新発田歩兵十六連隊は息つく間もなく連戦六千四百五十九名の戦傷病により戦友は戦野に散って逝った。
僅かな生存者は”国敗れて山河あり”疲れ果てた祖国に帰った。
祖国は我々を含めて再建という使命が待っていた。
しかし故国は伝統ある文化、道徳も民族の誇りも、その陰を潜め大和魂も失っておった。

既存の故国の姿ではなく異なる遺伝子とも思える文化が組み込まれ古来の伝統は消え失せていた。
幼いときから青春に至るまで教え導かれて来た、日本民族としての義務や責任、人を愛し労わり、国家民族を護るという誇りと美風は陰をひそめ、口に平和を求め唱えながら古来伝統には道を閉ざしている状況であった。
戦野で幽明境を異にした冥府の戦友に、お前は長生きをして何を遺して来たのかと聞かれたら、どのように答えたらよいのか。

我が国の永遠の平和と美しい伝統を遺して来たとは報告が出来そうもない。
現在における我が国の風潮は過去を忘れ、将来を考えずに現在の安易な平和と豊かさに酔っている。
果たして世の中が変わり進歩したと言えるのだろうか。
国内においても国際関係にあっても実に多くの問題が腹蔵している。

過去を忘れる民族は亡ぶという。
あの過去において我が国家、民族が苦境に陥ったとき、若い未来のある皆さんが第一線にたたなかったならば国家の命運は敗戦以上の悪運、悲境に見舞われたでありましょう。
敗戦となったが、死しても皆さんの力は残り発揮されて国家と民族は残ったのです。
これから日本民族は敗戦の痛手を払拭して提起されている諸案件を克服して我が国は正道を進み勇気をもって国際社会に生きてゆかねばならない。

犠牲となった皆さんの真意を忘れることなく改めて全国民ひたすら皆様の御冥福を祈り続けて過去を忘れることなく伝承してゆかねばならない。
現在の社会構造を鵜呑みにしてゆくとすれば国家は救われない。
なお人類の共存共栄が地球全人類の希みであることを銘記して付記をする。



我が思い


長谷川 良策

昭和十六年十二月八日、国民学校初等科六年生の私は、登校の途中、民家のラジオから流れるニュースで日米開戦を知った。
その時の衝撃と感動と不安は、六十九年を経た今でも、恰も昨日の出来事のように、判然と思い出すことができます。
私の父も開戦十日後に召集されて陸軍工兵の兵士として南方戦線に出兵した。

私の一家は、六十五歳の祖父と母と私を頭に四人の弟妹が残された。
家での唯一の稼ぎ手であった父を失った我が家は忽ち生活に困窮することとなった。
母は二十代後半に、弟の産後に体調を損ね、関節リウマチに罹患し、上下肢の関節が機能不全となり、日常行動にも支障があったが一家の生活を支えるため、日雇労働に従事し僅かの収入を得たが、到底一家の生活を充たすことはできず、町からの生活保護を受けた。
生活はまさにどん底であった。

当時、初等科六年生であった私は、卒業後の進学を決めなければならない時期にあり、担任の先生からは中等学校への進学を奨められ、親戚からも学費の援助の申し出もあったが、困窮した家計を考え、また出征した父の生還の保証もなく、長男である私が少しでも早く、父に代わり一家の生活を支えることが必要と判断し、国民学校高等科への進学を選択したのである。
高等科は二年制であり卒業時には、担任の先生から新潟師範学校(現新潟大学教育学部)への進学を奨められたが、五年間の修学は家庭の経済上も望めず断念した。

ところで当時(昭和十八年)の我が国は、米・英・蘭それに中国を加えた連合軍を相手に戦っていたが、戦局は逐次厳しくなり戦線も中国本土はじめ南アジア全域に拡大し、連合国は開戦時の喪失した戦力を回復し、反撃体性を整えつつあり、それに加え、我が国はミッドウェーでの海軍の大敗、ガダルカナルの撤退、山本五十六元帥の戦死、アッツ島の玉砕等、戦況は予断を許さない状況に追い込まれていた。

そんな中、昭和十九年三月高等科の卒業を控えた私は、兵役が義務制であった我が国では、遅かれ兵役に就くことが必須であり、当時の戦況から見て、生還を予想できるような状況ではなく、それならば一日でも早く軍人となり、華々しく戦い日本の平和と独立のための捨て石になろうと決断し、往時の若者の憧れでもあり花形であった海軍パイロットを目指し「予科練」に志願、合格を果たし、昭和十九年六月に、十四歳九ヶ月の若さで三重海軍航空隊に入隊した。

「予科練」教育は、今から考えれば極めて厳しく烈しいものであった。
これも敵に勝つためには必要な修練と考え、歯を食いしばり、必死に耐え日夜訓練に精励したのであった。
予科練での経験は、今の私の人間形成のための基盤となったことは確かだと思っている。

ところで、我が国の戦局は日を追い益々厳しさを加え、日本本土及び周辺の制海・制空権は、完全に米軍が握り、昼夜を問わず各地対するB29による空爆は激烈を極め、主要都市は焦土と化しつつあり、本土防衛の最後の砦といわれたサイパン、硫黄島、沖縄も米軍の手に落ち、更に広島、長崎への原爆投下に加え、連合国との和平交渉の仲介を要請していたソ連が、締結していた相互不可侵条約を一方的に破棄し日本へ参戦、遂に昭和二十年八月十五日、連合国の無条件降伏を受諾し終戦を迎えたのである。 我が国は、この大戦により約三百十万余のかけがえのない尊い命を戦場に、また戦禍により失うこととなったが誠に痛恨の極みである。

この大戦はわれわれに対し、戦争の悲惨さそして平和の尊さが如何に大切であるかを認識させてくれたものと思う。
戦争は人間の知恵により絶対阻止しなければならない。
それが即ち、この大戦により尊い命を捧げられた英霊の遺志の応えるわれわれに与えられた唯一の義務であると思う。






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