冥府

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冥府の戦友と語る



白い雲の方向に中国雲南龍稜方向

イラワジ河畔の大会戦

中国雲南省龍稜における断作戦より撤退をして反転ビルマ国に再び転進した。
ビルマ方面の戦局はインパール作戦との関連においてビルマ中央部のイラワジ河畔に英印軍は攻勢をかけて来た。
事態は急迫を告げていた。昭和二十年一月十二日、トングーを出発、イラワジ河畔大会戦への参加である。
前面の敵は中国軍から英印軍に移り変わった。
戦場の地形も山嶽戦からイラワジ河畔の草原に変わった。
ダヂンに着いたとき、腹に響くような砲撃が地響きをたてていた。

戦場近し。
この夜は久しぶりで携帯天幕を張って露営をした。
夜も更ける頃、私と同じ集落より補充された、長谷川二郎君、私より二学級先輩が私の幕舎に来て、「准尉殿、お願いがあります。もしも私が死んだら、この写真の人は私の許婚であります。
」と一枚の写真を出して、許婚であったが純粋な間であったことを伝えてほしいとのことと、印鑑、肉池を出して家に届けて欲しいとのことであった。
私から「長谷川君、俺だって同じ運命なんだ。いつ死ぬかわからない。」と云ってそれを預かった。
幸い私の近所から行李班に横山○(言に忠)君が本部に来ているので同君を呼んで預かっておくように持たせた。

運命とは奇なもので長谷川君が予感の如く、彼は翌日のタリンゴン集落より激しい砲撃、銃撃により田圃の中で戦史した。
初年兵で身近に落ちる砲弾に驚いて移動しての戦死である。
至近距離に着弾しても動くなと教えていたのだが。
早速、私はせめて遺骨の一部なりと考えて衛生兵より雑條鋏を借りて親指を切断し、これを前記の横山君に持たせた。
四〜五日経って遺骨が臭くてたまらんと持って来た。
それで肉を全部除いて骨だけにして持たせた。

南方戦線から直接御遺骨を御遺族に渡したのは長谷川二郎君のものだけであった。
よくも持って来れたものだ。
それに長谷川二郎君は、大正、昭和の時代男を代表するような融通もきかない程の生真面目な男であった。
それだから銃砲声に反応して死を直感したのかもしれない。

イラワジ河畔の大会戦は全くの草原である。
雲南の山岳戦とは逆に遮蔽物がない草原である。
英印軍は近代兵器を駆使しての攻撃、特に我が連隊の正面、タリンゴン・カンラン集落を拠点とした戦闘が激しかった。
敵は空より飛行機(偵察・爆撃・銃撃)、地上よりは各種砲(死角をつくらない)、戦車、その後ろに歩兵部隊、と要するに空陸一体の円筒形陣地を構成しての攻撃である。 我が方は相変わらず明治の所産三八式歩兵銃、多少の自動機関銃と攻撃の主体は夜襲突撃であった。
戦後本戦場を訪れ銃砲弾痕を目にしてその凄まじさを知った。

前記に長谷川二郎君は死の予感にふれたが、前線に立つときは度合いの差はあるにしても自分の死に対し予感を通り越して死を覚悟して生き残った場合どのよう身を処すべきか、負傷して動けなくなった場合どうすべきかはみんな考えてるが、戦線に立てば無念無想何も考えが及ばないということが実体だ。
自分を含め戦場に立つとき今度死ぬのかと予感を覚えながら、或いは否定をしながら自らを励まして赴く。
そして死んで逝った者、死ななかった者いろいろな思惑にかられるが、あれだけの戦友が冥土の陣地に逝ったのだから一人くらい幽霊の姿を見せてもよさそうなものだが、誰も何も見せてくれなかった。

それ以来人の死というものは一切が空、無に尽きるものだと悟った。
結果は淋しいような気持になった。
所詮人間の死ということは拘りなく要するに「生死一如」というところか。
先に英印軍の円筒形陣地戦法にふれたが、もう少し具体的に記する。
朝早くバタバタと観測機が陣地スレスレに顔をのぞかして飛んで来る。
小銃でも撃ち墜せるようだ、次に銃撃戦闘飛行、次いで爆撃機である。
同時にイラワジ河対岸より長距離砲による砲撃、概ね制圧した頃戦車群の攻撃、その後方より歩兵が戦車の陰で攻撃という手順である。
我が軍には飛行機は一機もなし、戦車もなし、僅か後ろに野砲隊が布陣しているが滅多に砲門を開かない、一発撃ったら何十発もお返しが来る。

草原に散開して背高に伸びた野草に隠れ壕を構築して夜間攻撃を待つばかりである。
素手で原生時代の戦闘法あるのみ。
勝てる筈はない。戦争にもならない。
敵機は草原を這うように頭上スレスレに飛んで来て銃撃をしてゆく、たまたま第一機関銃中隊が撃ち落し操縦士を捕まえた、師団司令部に身柄を送っておいたが、そこから逃げられ、翌日報復のために編隊で第一機関銃中隊陣地に攻撃を受けた。
これが戦争というものだ。
逃げた事は知らせれていなかった。これは作戦の誤りだった。

互角の戦力があってこその戦争であろうに不足分は精神力、戦法で補えと云っても近代兵器に向かっては無力である。
タリンゴン集落は寺と戸数二十戸程の少さな集落で中央に井戸がひとつある。
英印軍はイラワジ河を渡るためにミンムより渡河をしてタリンゴン・カラジョン・カンランに展開進撃をした。
タリンゴン集落は我が十六連隊が命ぜられた攻撃目標であった。
集落前面に拡がる草原は平坦で葦原である。
軍事拠点とはならない。
しかしこの草原に集落土塀に向かって進撃する我が軍は銃砲撃の前にバタバタと斃れていった。


バカンへの道




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