冥府

日本陸軍 第二師団 歩兵第十六連隊 新発田 あやめ会 戦記 戦死者名簿 ガダルカナル 雲南 ビルマ ジャワ ノモンハン 遺骨収集 政府派遣

冥府の戦友と語る

雲南断作戦へ進発

ビルマを横断のため、パコダポイントの亀のたまごとお別れ、竹やぶ生活より出て、イワラジ河を船で遡った。
マンダレー・明妙・腕町迄を自動車で走り、重畳たる襞(ひだ)が重なる高黎貢山脈を越えた盆地、龍稜に着いた。
当初の命令は謄越、拉孟部隊の救出であったが、同部隊は山岳戦に孤立無援の中で全滅した。 従って我々は同部隊の任務を引き継いで、印度〜中国間の物資流通ルートの印緬道路遮断作戦となった。

北支事変における中国軍とは違った戦力を備えた兵力であった。
若く装備も近代化されている。
援蒋ルートによって整備されたものだろう。
しかも重畳たる山岳戦である。
航空兵力はどちらもない。
戦車は使えない地形である。
時は雨季、冷雨が降りしきる。
我が軍は遠く戦線が延び物資の補給は困難を極めた。

この戦線もガダルカナル島戦の二の舞になる様相をおびて来た。
我が軍はここでも専ら夜間攻撃である。
その喚声は山に谺して凄惨性を増幅して地獄絵そのものだった。
戦線は終日やまない豪雨、特に夜間は咫尺も弁じない暗(闇又は暗さ?)である。我々が占拠した壕は敵が後退した陣地である。
敵の狙いが定することは当然で迫撃砲が正確に着弾した。

無謀な作戦は犠牲者を多くする。
後方の大本営参謀はガダルカナル島戦の夜襲のときと同一人物辻政信参謀であった。
加えて第一大隊長、勝股治郎少佐に対し、自分の作戦の誤りを転嫁して大隊長を免職し、現役免除、予備役編入、師団兵器部付という閑職へ追いやった。
斯くして第一大隊長という戦闘単位部隊としての戦力を削いだのである。
誠に言語道断たる仕業である。
大切な戦闘のさ中である。

この頃のことを英軍のスリム中将の手記で日本軍はビルマ作戦で致命的な弱化を来たしていると書いてあった。
このような参謀が無謀を行っていたからでもあろう。
雲南断作戦も撤退を決意した。
この後まもなくのことである。
多くの戦死者を高黎貢山系に遺したままビルマに反転してトングーに到着をした。



参考 断作戦の戦跡に想う
次ぎは平成十一年歩兵第十六連隊戦友会が中国雲南省龍稜の雲龍寺を中心とした戦跡慰霊巡拝に訪れた際、雲龍寺門前に建立それていた中国軍の慰霊碑資料である。











放馬橋  (援蒋ルート)



雲南断作戦へ進発

雲南断作戦より撤退
雲南を撤退して多くの戦死者を高黎貢山系に残しビルマに駐屯を求めトングーに到着をした。
この地で断作戦で失った兵力の補充を行った。
本国からの補充では次期作戦に間に合わないので泰国及び中国在駐の部隊より急遽補充とした。
幸いに新潟県出身者が多く含まれた。
意図的に準備をしたかの補充処置であった。
更なる作戦任務が待っている。

敗戦後の平成十一年十月に戦闘以来六十年の歳月が流れていた。
我々連隊の生存戦友会と遺族会の有志はビルマ・雲南・龍稜作戦に逝くなった御英霊のため是非共同地に慰霊巡拝を行いたいとの御意向があり、今迄通過を許可されなかったビルマより雲南に入るルートについて交渉打診をしたところ、両政府によって許可された。
はじめてのことであった。
過去には不許可であった。

これも戦友の御霊の導きであろうとよろこんだ。
総勢二十一名の参加者であった。
順調に計画準備は進められた。
作戦当時に通った道順を辿ってマイクロバスで出発をした。
心配されたのはバスの調子と道路の状況である。 相当な長途の旅になるのだ。
コースはラングーンから明妙、腕町市を経て緬支国境を通過、龍稜に至るのだ。
往復でバスのパンク二回、道路は国際道路とは云い難く仮舗装的なものであった。
当時は戦場の様相で殺風景に寒々としていた沿線も平和で静かな佇まいが印象的であった。

戦争というものがこれ程にダメージを与えるものか驚いた。
加えて沿線人々の心までも和やかに映る。
緬支国境は細い二本の針金が張ってあって杭に結わえてあるだけである。
娘達が鼻唄をうたいながら自由に跨いで行ったり来たりしている。
国境意識は感じていない。
微笑ましい風景である。

龍稜に到着、早速雲龍寺に参詣をして歩いて旧戦場に出た。
それぞれに陣地名をつけていたがもっとも近い二の山陣地を訪ねた。
壕はそのまま確認された。
しかし歳月は姿を変えて名も知れない草木が茂り壕の中はふさがっている。
壕の中を覗いて、「オーイ」と声をかければ戦友の声が跳ね返ってくるような気がした。
遺骨もそのままに眠っている筈である。
眠っている戦友の氏名もわかる壕もあった。

しかし手を入れることは出来なかった。
神聖さを汚してはならないような気がした。
雲南山脈は延々と伸び連なって、その峰々を援蒋ルートの道路が走っている。
あの凄惨な戦闘は六十年の歳月を経て歴史の中に綴り込まれている。
巡拝を終わったその夜は龍稜県の県庁より郭副知事以下の方々と晩餐会で懇談した。
この翌年、郭副知事以下八名の龍稜県の職員と共に日本を訪れた。
一年前に我々が訪れたばかりで郭副知事さんは大変なつかしんでおられた。
なつかしさは親しみを増してお互いに肩を抱き合って写真を撮った。
お互いに再度の面接を楽しみにして別れた。

さて、トングーまで撤退をして補充戦力やら体力の回復をはかって次期作戦を待った。
次々と負荷される任務は更なる次期戦場はいづくぞ。
勿論、遠くに砲声が地の底より響き聞こえてくる。
イワラジ河畔の草原であろう。




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