冥府

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冥府の戦友と語る



ガダルカナル島戦の最後

ガダルカナル島作戦の最後は異例の天皇陛下の勅裁による命令によって撤退をした。
本件については後記に経緯を記す。
ガダルカナル島作戦の第一線陣地に布陣している私共は、空海陸より隔絶されあらゆる情報から隔絶され、糸の切れた凧のように浮いているも同様であった。
我々は見捨てられ、忘れ去られていたのではないかの状態にあった。
いったい日本の国はどうなっているのか、故郷や同胞はどうなっているのか、心配でならない。 我々のところには何一つ情報が入らない。

死んでゆく者もみんなこのことを心配しながら逝くのだ。
敵が撒くビラにも東京は焼け野原になって、味の殿堂聚楽も姿が無くなったという。
それはそんなことは有り得ないと否定するが、なんとなく本当のことかなと思いいるようになって来た。
問題は我々はどのようにして死ねばよいのか、座して戦死をするよりも、いっきに敵陣へ斬りこんで潔く死んでゆくべきではないか、その場合一人でも二人でもよいではないか、要は自分の死を確かめたいような気持になる。
こんなことまで考えるようになった。
自ら弱音を吐くつもりはないが、こんな本音が出る。

しかし軍隊ではない、その機能を失っているようでもある。
しかし、堺連隊長の毅然とした姿に接すると、この指揮官がいる限り如何なる事態があっても大丈夫なんだという自信が涌いてくる。
よしこの人と生死を共にしようと自分を取り戻せた。
我が部隊は飛行場の奪回作戦に伴う損害が大きく、その後の食糧確保の不十分もあって戦力の消耗が甚だしく十二月中旬以降は絶食状態となった。
大半の兵は動くことも思うようにならず、ただ陣地にもたれて敵が切迫すれば捨身の射撃をして勇を鼓していた。

先に述べた一月十七日の総攻撃について戦後の米軍戦史は次のように特記している。
『米軍記による』
一月十七日は豪雨であったが、午後から四十九門の曲射砲を九十分間射撃した。
1,000平方ヤードに対し千七百発の弾丸が撃ち込まれた。
なお十六日の記述には日本軍の陣地の状況が詳細にわかったと記されている。
やはりあの日は弾丸を撃ち込んで我々を動揺させて、その動きをみた偵察攻撃をやったのである。
それにつられてあまり動じなかった我が軍であった。
全員自決を覚悟して動じなかった。
この頃我が陣地においては生命の極限状態にあって生存可能度を誰と無く次のような尺度で考えた。

一、寝たきりで壕から出られない者は一週間
二、脳漿に冒されている者は五日間
三、物を云わなくなった者二日間

熱帯のジャングルは瘴癘の地である。
栄養失調になれば必ず他の病気に冒される。
これらの悪条件の攻撃が激しくなる日々であった。
南冥の孤島ガダルカナルへ上陸をして三ヶ月余となる。
前記したが国家の命運をかけた戦いとなったが軍中枢部も決して我々を見捨てていなかったのだ。


以下は、戦後記も交えてガダルカナル島作戦のしめくくりについて書きとめたい。
撤退の経緯と行動及び井本熊男陸軍大佐大本営参謀との出逢いについて。
昭和二十年八月二十日終戦、昭和二十一年復員完結、そして世情も或る程度落ち着いた昭和四十五年或る日、新発田自衛隊第三十普通科連隊より電話あり、旧陸軍の大本営参謀、井本熊男氏が私に逢いたいとのことであった。
自衛隊に昼食を共にしながら、ガ島撤退に関る秘話、証言を直接聞くことが出来た。
ガダルカナル戦をこのまま続行すれば全滅となるであろう。
さりとて戦線の撤退は現地の軍命令では恐らく全員が自決玉砕をするであろうと判断されて、参謀本部の意向で天皇陛下に奏上しこの旨を申し上げた。

陛下は事情を聞かれ大変御憂慮をされて自らの勅命によって撤退が決定された。
その詔勅を混乱激戦の前線へどのように伝達するか、確実に下命を期するために井本参謀と佐藤参謀の二人が派遣伝達の任務を与えられたことを語られた。
この話を聞きながら我々は万策を尽くしても勝てる要因はない、万策の樹てようがないのである。
自決か自滅あるのみと覚悟していたことも事実であった。
もう見捨てられ、忘れられたとも考えていた。
従って軍人らしく笑われないように最後の覚悟は出来ていた。
その状況が軍中枢部にもわかっていたということで救われた。

あのとき自決したとしても認められての死であれば。
このことを井本氏に語ったところ、自分も充分責任者として心苦しいところでしたと仰られた。
ガ島作戦は日本軍にとって重要な作戦拠点であった。
我が軍は凡ての補給が出来ない条件のもとにあって第二師団、第三十八師団、軍司令部及び直轄部隊は時間と共に自滅してゆくことは自明の理であった。

昭和十八年一月二十五日撤退命令が下達された。
「連隊はこれよりカミンボへ後退をして同地に於いて新たな増援部隊を得て再度の総攻撃をする。各中隊毎に後退せよ」
詔勅によるものであるが動揺を防ぐことで撤退とは表現せず右のような命令となった。

各隊には前記のようにカミンボ(ガ島の最西南端の地点)までの後退、再度の補充を得て総攻撃の命令を伝達した。
私は職務上撤退行動であることは承知していたが、他は再度の総攻撃と信じていた。
しかし勅命という重い命令にあっても優勢な攻撃力をもつ敵前より撤退するということは難しい行動である。
それと各隊の状況からして懸念されることは。
第一、撤退の命令伝達をどのように伝えるか、兵員を動揺させてはならない。
第二、彷徨している精神不安定者の扱いをどのようにするか。
第三、壕の中で負傷或いは病気になって動けない者の対応。
これらを支えてゆける健常者はいない。

指揮者の苦悩が思いやられた。
漸くして南冥の孤島ガダルカナル島に約四ヶ月の死闘、連隊は将兵約二千八百名の犠牲者の遺体を残し撤退をせねばならないのだ。
事実また総攻撃で反転をして来るのであれば衰弱者に対してはこの辺で待っていたらということも云えるが、隊から離れることは死を意味することになる。
しかし兵員は本能的に眞意をわかったのか密林をかきわけて進んだ。
壕に残った者に対しては黙ってゆくわけにはゆかない。
さりとて事実を云ったら、お前はここで死ねということに等しい。
いづれ援軍と共に来るということで後ろ髪を引かれる思いで有るだけの食糧らしいものをやって壕の中へ残し出発した。

後年(戦後)これらの人々と逢って状況を聴き無事をよろこびお詫びした。(後記)
カミンボの近くまで来たとき敵は我が軍の行動を察知して追撃して来たようでもあったが接触戦はなかった。
新たな援護部隊を得て陽動作戦により敵を欺瞞し成功した。
それにしても壕に残した人達のことが気がかりであった。
翌々日午後十一時頃カミンボへ着いた。
ここではじめて撤退するという正式な命令を下達した。
収容の艦船は未だ来ていなかった。

しかし未だこの島から撤退することが出来ると考えなかった。
喜怒哀楽の感情が欠落したのか、なんの感動も涌いて来ない。
三時間位待ったところ艦船が闇夜に見えて来た。
本当にあの船に乗ってこの島を離れられるのか実感が涌かない。
磯辺から舟艇に乗り本船に移った。
乗船と同時に手際よくおにぎりが配られた。
夢を見ているようだ。
米飯のてざわり・・・
絶対に二ヶ以上食べてはいけない、食べたら必ず死を招くと厳重な注意あり。
禁を冒した者は死を招いた、胃の能力が対応出来なかったのだという。


昭和四十六年政府派遣のガダルカナル島遺骨収集団員として同島に行ったとき、カミンボにオーストラリア人がニッパハウスのホテルを経営しており収集団はここに宿泊をした。
二十四年前のこととなった。
なつかしく当時のことを想い浮かべ人の運命の不思議さをかみしめた。
撤退の夜もしも船が夜明け前に来なければ敵の攻撃で全滅をしたであろう。
しかし撤退作戦は成功した。

舟艇から艦船に移るとき海兵隊が手を差し伸べて引っ張り上げてくれた。
我々の姿を目にして思わず手が出たという。
御飯を食い過ぎて死んだ者、せめて腹いっぱい米の飯を食べたかった。
胃と感情が別々に動いたのだ。
ここまで来て死ぬなんて惜しかった。




あの夜、
前に詠んだ詩
この島で生きて

帰れる術はなし

兵黙々と壕を掘りいる

生きて帰ることになったが、何か実感は虚であった。
悲喜こもごもを乗せて闇に覆われた孤島を離れ脱出した。


註記
次頁以降の記事には前書がある。
陸軍大佐、井本熊男、大本営参謀は当時日本陸軍中央部ででもっとも優れた能力、信頼、人格を備えられた幹部であった。
戦後関りをもった。
新発田歩兵第十六連隊の原駐地を訪れたいということで、新発田自衛隊普通科三十連隊を訪れた。

そのときガダルカナル島戦の生存者である私に逢いたいということで昼食を共にし当時の状況について交々語り合って「作戦日誌で綴る大東亜戦争」の著書をいただいた。
また私からは「生と死の極限に生きて」の「巻頭書」をお願いして心良くお受け下された。
後日私も東京阿佐ヶ谷の自宅を訪問お世話になった。
天皇の詔勅によりガ島に使いしたほどの人、人格者であった。


参考
陸軍大佐、井本熊男著
「作戦日誌で綴る大東亜戦争」

抜粋
戦後米国の戦史を見ると、ガダルカナル島作戦間、第二師団の攻撃が失敗するまで米国の戦争指導中枢が、ガ島確保について楽観していなかったのは事実である。
全般兵力の運用についても、欧州に指向するか、太平洋を増強するかについて大統領までも加わって紛争を続け、対策を練っていた。
遂にガ島方面に空陸兵力を増強し、西南太平洋戦指揮官マッカーサーに命じてガ島確保に苦労している南太平洋地域指揮官ゴムレー海軍中将と特に航空兵力をもって支援させた。
ガ島を中心とした米軍第一線も苦闘を続けていたことは確かである。
陸上戦を担当した海兵第一師団は絶えず兵力の不十分と陣地の不備を痛感しつつ戦ったようであるが、その兵数は常に我が軍より遥かに多く、火力装備を総合すればその戦力は少なくとも我が軍の十倍以上であった。

補給は彼等としては不十分と感じたと思われなかったが、常に十分に射撃し、たらふく食って戦った。
敵は合理的な力をもって戦いに勝つ為に、特に戦闘、戦略の中枢が憂慮をもって論議し具体策を講じていた。
これに対し我が大本営陸軍部は、いわゆる戦争指導中枢部なるものは、きわめて強気で楽観的でガ島はそのうちわが方に有利に片付くという架空の観念を基礎として対応し、ガ島戦の具体的な様相をほとんど認識していなすったのが実情であった。
米軍は陸海空統合力を発揮してガ島に最強の海兵第一師団を基幹とする約二万の兵力をもって上陸し、海・空軍力を統合し所在の各軍の戦力を常時フルに発揮して、ガ島を中心とする航空の行動半径の範囲に強力な防衛圏を構成して逐次兵力を増加しつつ、ガ島を堅固な反抗の根拠地たらしめることを図った。

その兵力に対する補給は潤沢に行われ、戦力の安全維持、増大発揮を可能たらしめた。
それに対しわが方は戦力の発揮に極めて不利な態勢において、陸海空バラバラの状態で戦う外なき条件のもとに、敵より遥かに弱い空海戦力を短時間、間歇的に指向する状態で攻勢をとった。
わが方の補給の実行はきわめて困難で、所要量の三分の一内外を補給し得たに過ぎず、特に食糧の欠乏は甚だしいものであった。
ために在ガ島全体兵の戦力は一挙に激減した。
これでガ島の奪回ができる道理はなかったのである。
当時絶対優勢な敵の空地兵力の跳梁下おいては昼間敵に暴露するような正攻法をとることは絶対不可能であった。

夜間機動かジャングル内の昼間機動でで敵陣に近づき、夜襲によって銃剣突撃する以外にわが方が取り得る戦法はなかった。
大本営でそのことが判っている人間は一人もいなかった。
「大本営、陸軍大佐、服部作戦課長ガ島偵察報告」
服部大佐は十月三十日出発してガ島に赴き十一月十一日帰京した。
その偵察の結果について次のように述べている。
ガ島の実情は想像を絶するひどい状態である。

第二師団の戦力は四分の一以下と思われる。
第二師団が正攻法をとることが出来なかったのは当然である。
敵機の跳梁は目に余るものがある。
我が方は射撃することも出来ず、もっぱらジャングルにかくれることによって生存しているのが実情、補給続かず将兵ことごとく栄養失調の病状を呈している。
との報告であった。





ガダルカナル島に残した兵士と遺体


壕の中で動けない者、何処へ行っているかわからない者、ガ島へ残さざる得なかった者達の対応は指揮責任者の苦悩の決断であった。
戦友としての苦悩、あの場合こだわっておれば撤退作戦は成功しない。
限られた計画による行動を迫られた。
我々は敵を鬼畜ということの教えを信じて来た。
欧米文化など知る由もなかった。

陣中に米軍より撒かれたビラ「無駄な戦争をやめましょう。白布を掲げて我が陣地に来て下さい。決して射ちません。我が方には食糧も医薬品もたくさんあります。あなた方は私共の敵ではないのです。」
当時それを見てむしろ敵愾心を煽り立てるだけであった。
壕の中に残った兵達は体は衰え果て攻撃力もない、体の自由もきかないのだ。
しかし今あのビラが本当に米軍の心であれば残った兵達は助かるであろうと期待した。

結果は期待通りであった。
後日この報を聞いて多くの反省をした。
そこまで洗脳をして敵愾心を持たせた日本の教育に関る反省も含めて。
素直に国際法に基づいて人道的に収容後、住居、食糧、医療を施して戦後体力を回復させ日本へ送還されたと云う。
戦後史を見ても日本が如何に閉鎖的な国情であったかを知らされた。
我々は撤退後ガ島に最も近いブーゲンビル島エレベンタに着いた。
艦から上陸すると元気で血色のよい新しい服を着けた兵達が出迎えに来てくれた。
補充された兵達である。

同集落からも佐藤長次郎君、福田栄三君も来ていた。
私の姿が変わっていてみわけがつかなかったという。
エレベンタでは二千八百名の戦病死戦友の御遺体は収容出来なかった。
どのようにすればよいのか、協議の結果、まず各人の毎の塔婆を造ってそこに氏名、階級、死亡事由を記入して、兵の中から僧侶をお願いしお経をあげ供養し、それを焼却して少量の砂と共にご遺骨代わりにしようということになった。
それがせいいっぱいのことであった。
逝き戦友には済まないが一生懸命に考えた結果であった。

この御遺骨はフィリッピンのムニオスに移駐してから遺骨送還者を定めて故国に帰した。
尚昭和四十六年政府派遣のガダルカナルのガダルカナル島の遺骨収集団が現地に収集した御遺骨は南京袋に約八十五袋あった。
またその後も数十回にわたり収集をした。
いづれも御遺骨は氏名不詳であり、無名戦士として国家管理をしている千鳥ヶ渕墓苑に納骨をしてある。
更に御霊は靖国神社千鳥ヶ渕墓苑に合祀してある。

次にガ島で米軍に我々が撤退後収容された方々のことである。
米軍に収容されてから、日本に送還されるまでの経緯は前述したが、日本に還ってからのことで、家庭家族関係のことで種々と問題点があり大変申し訳なく、私なりにご家庭を訪問当時の状況を申し上げお詫びをした。
ガ島における戦病死者、現地残置者、生存者等に関る書類処置についてはフィリッピンのムニオス駐留してから一切の整理を行った。
そのうち現地残置者については三ヵ年戸籍を抹消しない特例法により戦死確認という手続きをとった。

しかし残置者が日本に送還されたのは既に経過措置の三ヵ年を経過したため戸籍処理で抹消されていた。
相続や婚姻関係で大変ご迷惑をおかけした。
これも戦争の犠牲として伝え切るには酷なところであった。






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