冥府

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続・越佐健児の石碑(いしぶみ) 第二部 新発田西公園所在の石碑・塔群

二、新発田西公園所在の石碑・塔群

第一号 越佐招魂碑




余 滴 日・清戦役美談 「死んでもラッパをはなさなかった」
第二十三課 成歓の役の喇叭卒(明治の国定教科書より)

明治廿七年七月二十九日、我が軍は、朝鮮國牙山の、支那兵を追ひ佛はんとて、先づ、成歡騨に向ひたり。
時に、朝早くして、夜未だ明けず。
敵のありかも、たしかに、分らざりしが、敵は、不意におこりて、我が前軍に向ひ、鐵砲をうち始めたり。

我が軍、いさゝかおくする色なく、殊に、前に立ちたる松崎大尉の一隊は、激しく應戰して、大尉も遂に討死けるが、後軍は喇叭の聲につれて、勇しく突進せり。
其の喇叭手の中の一人、ますます高く、進軍の喇叭を吹きたてつゝ、進み居たりしが、其の聲、にはかに、はげしくなり、やがて、又、絶えたり。
かくて、聞こえては絶え、次第にかすかになりて、遂に、全く聲なきに至れり。

人々走りよりて見れば、無惨や、銃丸にて、其の胸をうちぬかれ、喇叭を口にして、たふれ居たり。
思ふに、息のつゝ゛かん限り、喇叭を吹きならしつゝ、其のまゝ、息絶えたりと見ゆ。



かくて、我が軍は、ふるひ進みて、成歡騨をおとしいれ、更に進みて、牙山の營をうばひたり。
戰ひ終りて、後、人々は、此の喇叭手の勇しき戰死を聞き、死に至る迄も、其の職務を護りしに感じ、何れも、涙とゝ゛めかねたりといふ。
此の喇叭手の名は、白神源次郎といひて、岡山縣の人なり。


(参考文)「文芸しばた第三十六号 寄稿文より」
越佐招魂碑、考 ---明治初期の新発田の人の心---
畑山 秀三

明治維新によって我が国は、東洋の一小国から、世界の日本へと変革する。
そして近代国家としての体制を急速に整備する必要に迫られる。
特に極東周辺の情勢から軍備の増強が進められ、明治六年には「徴兵令」が発布された。
その論告には、士族、平氏の別なく「皇民一般の民」として、国家に報ずる国民皆兵の理想が謳われた。

然しこの徴兵令は、発布早々民衆の激しい抵抗に遭った。
民衆の抵抗は、「徴兵忌避」や「徴兵逃れ」と謂うかたちで行われた。
偶々明治十年の「西南の役」で薩摩の士族は新政府軍と戦ったが、「土百姓兵」といわれた鎮台兵の勝利に終わり、その後の反対は沈静化される。
そして東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本に鎮台が置かれ、軍制の基礎が固まる。
明治十七年に、日本海・新潟港の後背地として、新発田に仙台管区の管轄下に、歩兵第十六聯隊が置かれ、宮中に軍旗の親授式が行われた。

これを機に私達の新発田は軍都としての性格が強い町づくりが行われることとなる。
しかし、当時の新発田人は、長年「藩兵」としての意義の中に「皇民兵」と云う意識には馴染まず、ましてや国の為に遠く異国へ征くことに不安を抱いていたことは想像される。
そんな町民感情の中で徴兵された多くは貧しい農村出身の次男・三男で「喰い扶持べらし」とさえ陰口を囁かれていたと言う。

そんな国民感情を払拭するため、明治新政府は、欧州列強の王族の例に倣い、皇族男子方は陸軍か海軍の何れかの兵籍に属して範を垂れされ、又「統帥権」を政治に優先される権限として独立させて「富国強兵」への国家の方向性を明確にする。
そうした中にも、列強の植民地拡大は極東にまで及び、中国(当時は清国)や韓国(当時は李王朝)を取り巻く我が国の周辺を脅かす緊張情勢が続く。
特に朝鮮半島は政情不安が長引き、国内は疲弊し「東学党の乱」など全土に農民の反乱が広がり、一衣帯水の我が国の安全上、常に脅威を与えていた。

この朝鮮半島の問題で、清国との衝突によって、明治二十七・八年の「日清戦争」となり、我が国としては清政府による外征戦争となった。
開戦となるや、新発田聯隊は第二軍に属し、山東半島の作戦に参加して威海衛の攻略に向かった。
日本軍は連戦連勝の勢いをもって敵中深く進入する態勢で戦いは終わった。
その結果、講和条約によって、台湾は我が国の版図に入ったが、一部蛮族の抵抗があり、新発田聯隊は引き続きその鎮圧を任ぜられた。

かくして一年有八ヶ月の間、満州の広野に、又台湾の蛮地に於いて勇戦奮闘を重ねて、明治二十九年五月四日、故郷に凱旋帰国した。
当時の資料によれば、戰病死者は二百七十名、負傷者は七十五名と記録されている。
明治新政府始まって以来の「皇民の軍隊」として外征して勝利したことは、国民にとっては大きな自信となり歓喜に沸き返っていた。
然しその一方では、一片の徴兵令状により異国の地で戰病死した英霊の遺族は、深い悲しみを味わうことになる。

徴兵の多くは貧しい農村の壮丁で、一家の働き手を失ったことは国の為とはいえ、逝く者、残された者、そしてその方々を見送った町民の多くも一様に悲しみの心を共有することとなった。
その悲しみこそ当時の新発田人の本当の心であった。
故山の五十公野山の陸軍墓地に埋葬された遺骨に別れを惜しむ行列は延々と続いたと伝えられる。
一方、聯隊の衛戍地内(現在の西公園)の一角に、「越佐招魂碑」の建設が進められ、十米に及ぶ剣の刃型を型どり、碑文には格調高い篆書文字による書体で、台湾総督・小松宮彰仁親王のご親筆が刻まれる。

落成した明治三十一年、この碑の前で改めて町民による盛大な慰霊祭が執り行われた。
当時の新発田人の深い悲しみの心は、招魂碑の碑文の左右に刻み込まれた一遍の漢詩に託された。


曰く、離家三四月(家を離れて三、四月)
   落涙百千行(涙を落とす、百・千行)
   万事皆如夢(万事、みな夢の如し)
   時時仰彼蒼(時どき、青い空を仰ぐ)


この漢詩は、平安の昔、菅原道真公が大宰府に左遷されて、三、四月経た頃の心境を詠んだもので、簡潔平易に新発田人の心を、この碑に刻んだものと謂えよう。
然し、その悲しみの心は、十年後には宿命の大陸で「日露戦争」を戦うという国運を賭した時代の大きなうねりの中に埋没する。

更にその半世紀足らずの後、「太平洋戦争」となり、「国宝部隊」と讃えられた新発田聯隊は、中国大陸で、ノモンハン草原で、ガダルカナル島で、そしてビルマ戦線で苦戦の末に、昭和二十年八月十五日の終戦の玉音放送によって、建軍以来の光輝ある軍旗を奉焼し、聯隊の終焉となる。
越佐招魂碑が建立されるに当たって、明治初期の新発田人のこの碑に対する思いに反して、この地で眠る郷土の英霊は二万四千柱を数える。

これ迄にどれ程多くの人々が涙を流したことか。
終戦により、「皇民の軍隊」が消滅したが、現在に生きる私達は、悲しみを超えて戦った戦没者の涙を、その足跡とともに後世へ伝えたいと思う。
平和の有難さを明治初期の新発田人の心の原点として、改めて招魂碑を仰ぎ見直したいと願う。
(付)新発田人の心を刻んだ碑文及び添歌





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