冥府

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生と死の極限に生きて



満州の山岳地帯で討匪行---盲腸と腹膜炎で三日間の命と言われたころの著者

大正初期・昭和・生い立ち


私は大正六年三月二十六日生まれである。貧乏な家に生まれたものだと自覚したのは小学校6年生頃になってからである。
当時集落(北蒲原郡聖籠村藤寄)の同級生のうち新発田中学校に入学できる者は一名、乙種新発田農学校に入学は一名であった。
あとの七名は高等小学校に進学である。
高等小学校にしても貧乏百姓では容易な事ではなかった。
女子は一名だけが高小に進学した。
私は、母が大変な教育理解者で私の勉学意欲を評価してくれたお陰である。

母の実家は旧北蒲原岡方村大瀬柳の小林源次郎という家号で、かなりの旧家であったと聞く。
元県会議員の曽我四朗次氏(歌手一節太郎の実父)が近所という関係で私によく話しを聞かせてくれた。
母の叔父が明治の政治家板垣退助の秘書になって財産の殆どを費やしたと伝えられている。
(聖籠村の土田フミさん宅にも二十五万円の板垣退助の借用書が保存されてあり、私も見せて貰った)
小林家は現在、家系が絶えて他の人が家を継ぎ守っている。

こうした血筋の母が私に託するものがあったのかもしれない。
世は日本の国が明治維新で鎖国からさめて約十五年の歳月が流れたに過ぎない頃のことである。
私の家号は七十朗という。
過去帳は寺(西蒲原郡小杉の松韻寺)の消失によって明治五年以降のことさえ分かっていない。
家系は古く、藤寄には早く定住したらしい。
信濃川の水害で生活が安定しないため西蒲原より移住したらしく、松韻寺を主寺とする家は十件ほどあった。

所有地も随分と多くあったらしい。
現在の7号バイパス路線に繋がる浦山道路を七十朗道と呼んでいる。
明治の戸籍簿に「明治五年月日不詳、当県道郡太田興野より古田島源之丞二男入籍」とある。
この二男が家を相続した長谷川綱次であり、大酒飲みで殆どの土地を売ってしまったという。
実話として叔母の長谷川マツノからよく聞かされた
こんな家系の中で貧乏な生活を強いられてきたのである。
もっとしっかりやりくりをしていた先祖であれば、私も進学できたかもしれない。
従って人生も変わったかもしれない。

集落では保守的な因習が濃く残っており、資産の有無が序列となり家号の呼称も「様」、次ぎは「どん」、それ以下は呼び捨てである。私の分家が「どん」で、私の家が呼び捨てである。子供心にも矛盾を感じていたものだ。
聖籠町の町誌(昭和五十三年刊行)二五二項の第五章の民謡に次のような臼挽き唄が載っている。

  大夫興野の 七十朗のお夏
   きりょう一番 姿は柳
  心は水晶の 玉のようだ


当時は、現在の住所が大夫興野であった。
明治以降の戸籍にはお夏なる人は載っていないから、それ以前の人物であろうと思われる。
こんな美人で心のやさしい人がいたというのだから子孫は見習わねばならないところである。
 


ソビエト国境近く 憩いのひととき

時代背景



私共の青春は世界恐慌の波にさらされて、国内は不景気のどん底にあった。
失業者は町に溢れ、求職者に対する働き口は十人に一人といわれた。
それにも増して農村、特に東北農村地帯は冷寒、水害による凶作も加わって困窮を極めていた。
国際外交にあっては、彼の第二次世界大戦で戦犯として処理されたが、当時最も有能な外交官であり政治家といわれた広田広毅外務大臣が「長州がつくった憲法が日本を滅ぼすことになる」と言った如く、統帥権の独立を認めた明治憲法が満州における関東軍の暴走を許し、日本の軍隊が日本政府に従わないという奇怪な事態にまで陥った。
関東軍はもはや日本の軍隊ではなく、別の独立した軍隊ともささやかれる状況にあった。

日本は断じて支那(中国)本土に手をつけてはならない。
また欧米の勢力範囲を侵すべきではないという良識を敢えて抑えこみ、中国政府との間が悪化しつつあった。
こんな世情の中の昭和十一年二月二十六日未明、前夜半から降り積もった三十年ぶりの大雪を踏んで皇道派の青年将校の率いる千四百余名の将兵が反乱を起こした。
即ち二・二六事変である。
青年将校達は兵士たちの背後にある東北農民の荒廃した生活を見かねて蹶起したという側面、底辺の民草が忘れられているという怒りで腐敗した財政界の打倒を夢見たのである。
このような混乱の時代、政治、経済、外交、産業は未成熟の揺籃期であった。

しかし教育は建国の基本として既に小学校六年生までの義務教育制とされていた。
だが、貧しい農村ではこの義務教育すら受けられない子供がいたのである。
一方、この教育制度が後の日本国の発展の大きな力となったことは事実である。
私が昭和三十五年から助役として仕えた聖籠村長の渡辺得司郎さんは、実家が村の中級地主であった。
この時代にあって、金沢市の第四高等学校を経て東京帝国大学を卒業された方で、亀代村と聖籠村の合併の基礎をつくった人である。
渡辺氏は私よりも二十八歳違う明治二十三年生まれである。
その頃、新発田中学校(旧制)から東大に行かれたのだから、我々とは全く違った社会を歩んでこられた人である。
東大卒業という能力はまさに日本の頭脳であり、多くの学ぶところがあった。
満州拓殖銀行理事として本荘繁関東軍事司令官満州に大きな支配力を誇った蒋介石とも会って、前述の関東軍の資金源の操作をやった人であった。
しかし、滅多にそのことは口外しなかった。


元聖籠村長 渡辺得司郎氏


後年、私は軍隊に入ったのだが、各種高等教育を受けた将校が招集されいかに教育というものが大きな力であるかを知らされた。
青年時代独学しようとしても都市の図書館には手も届かず、本乞食のように漁っても思う本は手にすることができない、全く閉ざされた環境であった。
人間は時代を選び、場所を希望して生まれることは出来ない宿命がある。
しかし、生まれた時代を有意義に生き、悔いのない生き方をしなければならない。
この頃の時代は生まれた時点において、着るもの、持つオモチャ、食べ物に至るまで階層がつけられた時代であった。
白線の入った学生帽をかぶって新発田(当時)の方から自転車に乗って帰ってくる学生を田圃の中から眺め、羨ましくてならなかった。


これも人生の定めかと半ば諦め、一方ではいつかの日、何かの気運に乗る期待と時期を夢として気概を燃え立たせていた。
沼垂(新潟市)の藤山藤作氏は船頭の子に生まれ東京に出て書生となり苦学をして立派な弁護士となって活躍している。
しかし多くの農村青年は、貧乏と苦渋に喘ぐ社会の仕組みの重圧の中で出口のない毎日の生活に悶々の月日を送っていた。
大正十三年、隣の木崎村では全国的にも知られた小作争議が起こった。
確かに小作農業は過酷なものであった。
農作業そのものが原始的で非効率的であり、制度も閉鎖的で改善の余地は全く閉ざされていた。
加えて農村の生活環境は非衛生的、非文化的で明治維新後といっても武家政治の封建制度の延長線上を歩いているようなものであった。
地主制度に抗して立ち上がった農民が農民学校という小作人の手作り教育の手段を持って教育までも独立するに至った。

小作農民の抵抗は結果として何を得たのであろうか。
その後の農村社会や農政を見る限り、依然として変わるところが無かったように思えた。
旧態然として米価をはじめ、小作制度には変化がなかったことを自分自身が経験した。
戦後の占領政策により行われた農地解放や米価決定等から考えると今昔の感に堪えないものがある。
現在の農業が第一次産業としていまなお悲哀をかこっているのは、農業自らに問題がある。

さて当時の農村には夢も理想も湧いてこない我慢のならないものだった。
越後山脈を眺め、あるいは日本海の水平線に見入ってあの彼方にはなにかがある、命を賭けてもやり甲斐のある、自分の将来を切り開く場を見出せるのではないかと胸がときめいた。
しかし、清水トンネルを越えて東京や関西に出てゆくことは容易ではないのだ。
ましてや日本海を越えることは至難なことであった、それでも出てゆける青年は恵まれている方であった。
大部分の若者は家系を扶けるために奉公(作男、下女)に出なければならなかった。
農村からの離脱は至難のことであった。

やるせない焦りと鬱々とした悩みが青春の身を苛んだ。
現代の若者には想像できない空しさであった。
現代と違ってラジオ、テレビも無く一般社会の情報は全くはいらない。
自分の住んでいる村内の情報すらも遠いところからの風聞程度に伝わってくるような状況である。
何の娯楽もない若者たちは道路脇で下駄に腰を下ろし、夜空のの星を眺めながら夜半まで話し合う。
内容は決まって、今後どう生きていったらよいだろうというのが中心だった。生活の中で楽しむという余裕すら無かった。
ひたすら生活を支えるために働くことだけであった。


同級生のM君は勇敢に横浜に出て、現地で結婚し立派に自立し、現在幸せに暮らしている。
一級上のY君は東京に出たが失意のもとに自殺した。
二級上のF君は空手で上京して兄の許を訪れたが諭され、結局故郷に戻り暮らしている。
その頃弁論大会がしばしば開催された。
現代の青年の主張と違って、将来にかける悲痛な叫びがあった。
その論旨は海外へ雄飛せよ、と叫ぶ声が多かった。
行き先は満州であり、南米ブラジルである。

藤寄集落からは八幡与三氏(当時19歳)、渡辺均氏、小見武義氏等が実行に踏み切った。
その後、小見卓朗氏、小見正博氏も北米に渡った。特に小見正博氏は高等小学校卒業後、米国の大学に入り、名を成した宣教師として世界的に活躍をしている。
昭和四十六年、私は南米移住者の訪問と視察のため一ヶ月の旅行をした。
その際、八幡与三氏御夫妻と四十年ぶりでブラジルのサンパウロでお逢いすることができた。
八幡氏は私がサンパウロに滞在中、三晩続けて訪ねてこられた。
若い青春の血潮が騒いだ四十三年前、故郷を飛び出して爾来今日まで日本には帰っていないのである。
どれ程故郷のことが恋しかったことであろう。私も一度は憧れたブラジルであり、人ごとではなかった。

四十三年間のブラジル生活。
第二次世界大戦を現地で生き抜いた苦労等、話しは尽きない。お互いに苦労はあったが、私の苦労とは質が違っていた。
男としてのやり甲斐のあるものとして聞こえた。
私が故郷の一戸一戸、全戸の状況について詳しく説明をした。
八幡氏は故郷に帰ったかのような感慨にひたって、あの川、あの山、あの道、あの人々の話しを飽くことを知らずに聞いて涙を浮かべて懐かしんでおられた。
その翌年、望郷の念堪え難く、八幡氏は四十六年ぶりで日本の土を踏み、故郷に帰られた。
訪問後、数々のよろこびを味わって、再び妻子の待つブラジルにお帰りになったが、その翌年急逝された。
故郷には暇乞いにお帰りになったような結果となった。
こうして青春と人生を賭けた彼の地に子孫を残し、異郷の地で逝去された。
これが大正時代に生まれた男の人生といってよいと思う。


学歴の無い農村の長男は家系を守り、二、三男は外に生業を求めなければならなかった。
この時代大正中期から昭和の初期である。
農家の農地の多くは小作地である。
小作料を支払う一種の契約栽培である。
しかし、その内容は地主に対する専従である。
現在のような原価計算に基づいた米価ではない。
投機的な市場米価であった。
小作料も基準のない一方的な査定に基づくものであり、不服の場合は「土地を返せ」となる。

肥料屋の手先、米屋の踏み台のようなものだった。
国内の政治、外交といえば、軍部と政党が外交の主導権を争い、統制がとれていなかった。
特に対ソ問題は、帝政ロシア時代からの延長線上にあって東支鉄道をめぐって対立し、関東軍は満州事変もなお中国本土への南進政策を主張して中国側を刺激していた。
外交には経験も知識もない軍部が政党の意とする方向を理解できないまま、統帥権を乱用して横槍を入れたり、政治にまで干渉する状態にあったようだ。
中国の実力者、張作林は「日本が武力をもって満州を掠奪するつもりか」と怒っていたという話しなどが伝わってきた。満州事変以来、一連の動きの中で日本の欲するところがあったとしても、武力行使は戦争をもって戦争を誘発するものであった。

ついに中国は、事変の経緯をみても日本の計画的行動は許せない、として国際連盟に訴え出た。松岡洋右を団長とする日本政府は連盟に乗り込み、松岡洋右が原稿なしで一時間二十分にわたる熱弁をふるったことは有名である。
結果はリットン卿査団の報告にもとづいて、満州を中国の主権下におき、自治権を持つ特殊地域として日本の撤兵を要求するという案が出され、出席四十四ヵ国中、賛成四十二ヵ国、反対一(日本)、棄権一(シャム)で可決された。松岡洋右は憤然として席を立ち二十名の代表団を率いて退場した。時は昭和七年十二月八日であった。奇しくも大東亜戦勃発の月日と一致している。
国際連盟を脱退した後も、昭和十二年まで、中国、ソ連、英国、米国を相手に外交折衝が行われた。
特に中国に対しては、中国の主権を尊重すると共に第三国の既得権を侵害するものではないことを強調し続けていた。
このような情勢の中、先に満州事変から帰って間もない第二師団に対し渡満の命令が降ったのである。
事態は当時の広田外相の懸命な米英との和平斡旋交渉も陸軍の強硬派によって不成立となり、国内にも戦時色が濃厚となりつつあった。
私が大陸に渡る決心をしたのはこのような国内外情勢であった。勿論一触即発の危機がはらんでいることなどとは知る由もなかった。
当時新潟港から新潟市の小林力三商店が朝鮮の清津港に向けて半客船の定期航路をもっていた。
親には無断で渡満するために新潟港へ行った。乗船料は三等で二十一円であった。
図們を経由、新京を目指すこととした。十八歳である。
切符を求めたところ、年令が十八歳であり親の承諾書と受け入れ先の保証人を求められたが、その用意は勿論ない。
即座に断られた。

全くの徒手で異国の地にということだから無理なことである。昭和十年のことであった。
その頃の時代風潮として、長男はどんな事情があるにせよ、家督を継いで親の面倒を見ることが不文律で定まっていた。
こうした因習が重く肩に負いかかって、尚更に身動きがとれなかった。
財産を引き継ぐといっても僅かな田畑に過ぎない。
ただひたすらに親の老後と安らかな親孝行という道義責任が負荷されているのであった。
当時は家族、家系を尊重しながら、国家に対しても忠誠を誓い義務感をもたせられていた。

こうした因習と環境のはざまに苦しんだ青年達の心境は、現代の若者には味わえないところであるし、理解しにくいのではなかろうか。
いまでは、平和が恒常化して、若者は戦争や動乱を知らない。
豊かさの中に生まれて貧しさは味わっていない。
大変結構なことではあるが、せめて歴史として知っておいてほしい。
当時の若者は貧しさに押し出されてどこへ行く。
先にあてのない世の中であった。



第一大隊幹部 源紫郎大隊長以下勢ぞろい





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