冥府

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冥府の戦友と語る

聖籠町苦節四十年の歩み


渡辺得司郎村長の英断
3)ビニール水田
(県営開拓パイロット事業)
昭和三十四年、次第浜、網代浜、亀塚浜地域より海岸線には水田が無く、沿岸漁業で得た収入で飯米を購入している。
なんとか水稲栽培によって、せめて飯米だけでも確保出来ないものだろうかという要望が出された。
早速県農林部に指導をお願いにいったところ、島根県の斐川に戦後河川敷に入植した人達が河川敷にビニールを敷き込んで稲を栽培しているという話をしてくだされた。
早速村長にお願いをして、同地を視察することになった。

幸い県から内野砂丘地試験場の横山所長と農産課の田原技師が同行をしてくだされた。
あの歴史上の伝説である日本武尊命が退治したという八頭の大蛇とは、この暴れ川のことで、この河川を治水工事によって治めたのが日本武尊命ということなのだ。
まさに加治川の大蛇退治ではなく、砂丘退治というところか。
既に案内をしていただいたところは、秋の収穫も終わっていたが、ビニール水田には稲株が残って生育の状況が判った。

さすがに専門家である両氏は必ず海岸砂丘地にも適合すると判断をされた。
その後県当局は事業の成否を判断するために春早々に次第浜の天谷重兵衛氏と網代浜の永井幸平氏の砂丘畑にビニール水田の試作田を造成した。
その結果は初年度より優良な品質を収穫することに成功した。
以上の結果を踏まえて県の積極的な指導のもとに次第浜、網代浜地域の国道に沿った山林八十ヘクタールを対象面積として、県営事業として大規模開拓パイロット事業を申請して承認された。

さて地元の要望によって実現された事業ではあったが、八十ヘクタールという大面積であり、松林というものが過去に換金価値のあったこと、また燃料としての利用価値等のことと、財産的所有のことなどを関係者に説明協議をして開発造成の了解を求める、思うような進展を得られなく大変な苦労が伴った。
地元役員、役場担当者は昼夜を問わずご苦労をかけた。

大事業であった。
多少の不参加者はあったが、既定規模面積も確保され事業の実施に進むことが出来た。
あの鬱蒼とした自然林が、松林が伐採され、整地見事な水田になってゆく姿を見て、関係者は米が作れる喜びに勇んだ。
この事業は昭和四十三年着工、昭和四十七年竣工の予定で計画された。
ところがここで起こったのは、国が米の過剰生産のため水稲栽培の調整が実施されたことである。

全く思いもかけないことであり、水田造成を目的とした事業に逆行したことである。
八十ヘクタール計画の半分を造成した工事途中でのことであった。
米が余るという状況の中で補助金を出して新規に水田を造ることは出来ないという。
造成の目的は米を栽培するという約束で了解を取り付けて実施した事業である。
今更半分で中止することは出来ない。

進めてきた役員の立場で説明のできるところではない。
勿論国の立場は行政自体も十分分かるところである。
国や県と種種協議を重ねた結果、地元の状況も十分理解して工事は既定どおり継続することに決まった。
但し残りの四十ヘクタールの工法は同様とするが、名称は「ビニール畑」として、稲の作付けはしないということで決着した。
しかし、その後は稲の作れるところと、そうでないところで不均衡な利害関係が生じて対応に苦慮した。

稲作の生産調整では全体の八十ヘクタールの中で休耕田と作付田の調整をとり、休耕田については大豆等の転作で対応した。
しかし、本来米が欲しい事情で行った事もあり、暗黙のうちに稲を作付けした。
時たまたま福島潟に転作問題が提起されていた。
国の高額補助事業であり、国の会計検査員の立ち入り検査があり、稲作違反を指摘されるに至った。
これがため本来ならば補助金の返還という措置をとられることになる。
県当局と地元の窮状を訴え、交渉を重ねた結果、作付けした一部を刈り取りすることで温情ある計らいで解決をすることができた。

しかし、今になってみれば、あの山林をあの状態にしておいても生産性のない原野に等しいが、いずれにしても農地として無駄ではなく評価できたと思う。
自己満足であろうか。




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