冥府

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慰霊巡拝 ガダルカナル島の祈り








慰霊のことば




新発田市連合遺族会長 佐藤 精一

(斉藤二郎・遺族・市観光課長)

英霊の皆様方は、さきの大戦に於いて、祖国の安泰と民族の繁栄を願い、最も激戦地として知られるこの地で、敢然として戦い、はるかな異郷の地で散華されました。
痛恨の情まことに禁じ得ないものがあります。

顧みますれば、国の運命をかけた、第二次世界大戦が終わって四十二年を経過しました。
敗戦という経験したことのない不幸な事態は、戦後の社会に著しい混乱と荒廃をもたらし、その試練の道はまことに厳しく、悲惨なものでありました。

然し、私達は、英霊の意志を心にきざみ、あらゆる困難と、苦しみに打ち勝ち、家を守り、遺児を教育し、平和国家建設の一員として、それぞれ努力して参りました。
そして、たゆまぬ忍耐と努力は、祖国を立派に復興し、今や我が日本は、世界の人が目を見張る平和と、繁栄を築き上げるに至ったのであります。

また、郷里新発田をはじめ、阿賀北地方も大きく発展をとげ、戦前と比較にならぬ、想像もし得ない暮らしをしております。

私達は、筆舌につきぬ激戦の地、ガ島に罷り出、香華をお供えし、お別れをして以来の諸状況を報告申し上げたいと心に念じながらも、遠くはなれた異国の地でありますれば、その目的を達することが出来得ないでおりました。

幸い、比の度、新発田、北蒲原郡の市町村長様が中心となり、ガ島戦役戦没者の慰霊祭を、この地で挙行できるとの報に接し、これまた佛のお導きと感涙し、本慰霊文を託し、献読いただいた次第であります。

何卒英霊の皆様、永遠に安らかにお眠り下さいますよう心からお願い申し上げます。
昭和62年9月30日




===視察報告===




ガ島の戦跡を訪ねて

黒川村長 伊藤 孝二郎




九月、村長選も終り、息つく暇もなく、九月二十六日、私共ガダルカナル島慰霊巡拝団一行を乗せたキャセイ航空505便は、成田国際空港を飛び立ち、途中香港、シドニーを経由してブリスベーン空港に到着した。

南半球は、今が張る爛漫の季節。
しないのどこを視察しても美しい花が咲き乱れ、街には春の香りがいっぱいに漂い、往来する人々の表情も陽気に満ち溢れ、又来年国際博が開催されるとのことで活気に満ちた街であった。 そして翌日、ソロモン国ヘンダーソン空港へ到着した。

夕闇迫る空港は、初めて体験する熱帯地方特有の蒸し暑さ、遅々として進まない税関手続、いらいらしながら待つこと数時間、ようやく手続きも終わりほっと一息つく、大変なところへ来たものだ。
しかし、南国のこの地で食料も薬品も弾薬もなく、祖国の勝利を信じて散華された多くの先輩諸氏、このうち黒川村出身者が十一名含まれており、この中には、私が幼い頃、よく面倒を見てくれた兄もこの地で眠っているのだと思うと感慨無量で、暑さと苦しさを忘れピーンと身が引きしまる思いであった。

迎えに来た中古のマイクロバスで凸凹の砂利道を走り、タンベアのビレッジホテルに着き、大勢の現地人が荷物の運搬を手伝う。
電灯がなく、ランプ生活である。
「敵」の来襲「ヤモリ」の声、何か太古にもどった感じである。
久しぶりで蚊帳の中で寝ることになったが、暑くて寝つかれそうもない。
ランプの下で同行の富樫先生と持参した碁盤で囲碁を楽しむ。
先生が慣れぬ手つきでランプのホヤを?み、その熱さに手を離せば、ホヤは木端微塵に割れ、手は火傷寸前のハプニング。

長旅の疲れから寝床に入りうとうとしていると、時々屋根に果物が落ちるのかドスン、ドスンと音がして、その度にパッと目がさめる。
漫然としながら朝を迎える。
長谷川聖籠町長さんの案内で島内の戦跡を巡拝する。
澄んだ空、美しい椰子林、エメラルドのような海、こんなところで大激戦があったとは想像もつかない。

タサファロング海岸に出た。
当時を思い出させるかのように、波に洗われ赤錆た船体の残骸がポツンと寂しそうに私共を出迎えてくれた。
砂浜におり打ち寄せる波に洗われた十数個のきれいな小石を手で握りしめ、村の遺族の方にお渡ししようとそっとポケットに詰め込んだ。
首都ホニアラに着く。
静かな街である。

しかし、ここが四十五年前の大激戦の最前線で多くの犠牲者が出たと聞かされ再びびっくりした。
同国駐在の平賀臨時大使を表敬訪問して、慰霊巡拝のためご尽力頂いたお礼を申し上げ、又大使から現地のお話や、日本政府が毎年十億円の経済援助を行い、同国の建設事業や医療対策などに力を注いでいること、又日本青年海外協力隊の指導も高く評価されているなど、日本に対する期待も大きく、対日感情も大変良いとのお話があり、この地で亡くなられた先輩諸士も安らかに眠ることができるであろうと、ほっと胸をなでおろした。

その後、ホニアラ市長を表敬訪問し、市長や市議会議員の皆さんと親しく懇談し、私共が目にしたことのない手造り料理で大歓迎をして頂いたが、食べ慣れない料理のせいか食欲は一向に進もうとしない。
次に大使のご案内で大統領府に大統領閣下を表敬訪問したが、閣下が海外へ出張中のため、ケニロレア総理代行兼天然資源大臣が私共一行を歓迎してくれた。

倉成外務大臣からのメッセージと持参した記念品をお渡しし、戦後長年にわたり遺骨収集等に大変なご理解とご協力を賜っておることのお礼を申し上げると、副大統領から日本の援助に感謝しているなどのご挨拶を頂き、親しくご懇談することができた。
その夜泊ったメンダナホテルは美しい海岸の一角にあり、現地人の親切な応対や歓迎ぶりに旅の疲れも薄らいできた。

翌日小雨の中、再びバスに揺れて郷土部隊の戦跡を巡拝する。
ルンガ川上流の新発田十六連隊が飛行場を迂回前進した高地で、ご遺族からお預かりした供物や線香を供え読経で供養、午後戦跡が一望できる景勝の地、アウステン山の頂上「血染めの丘」の慰霊塔の前に祭壇を設け、持参した郷里のお米やお酒、お菓子などの供物を供え、平賀臨時代理大使ご夫妻を始め、飯島厚生事務官を団長とした厚生省遺骨収集団の皆さん、海外青年協力隊、現地在留邦人、現地民など大勢の参列を得て、栗橋常勝寺ご住職の読経のもとに厳粛のうちに慰霊祭を執り行った。

団長として祭文を読み上げ、南冥の南十字星の下に静かに眠る先輩諸士のありし日を偲ぶとき、万感胸に迫り熱いものがこみあげとめどもなくほほをつたった。
本当に現地に来て弔いができて良かったなあと思ったのは、団員一同の心境ではなかったかと思われる。
その帰途、コカンボナに立ち寄り、当時、日・米が戦闘に使用した焼けただれた大砲や、赤錆びた飛行機などが陳列されておる景観を見て、当時の悲惨な姿が脳裏をかすめた。
さらにバスに揺られホニアラの市場に着く、市場なのか物々交換の場所なのか区別はつかないが、売られている物資を見てこの国の生活レベルを感じ、何かタイムトンネルに入ったような感覚に陥った。

その夜、私と副団長の新発田市長、安田町長、事務局長の聖籠町長の皆さんが、大使ご夫妻のご招待を受け、林領事や厚生省飯島遺骨収集団長、そして大洋漁業の皆さんと大使の奥さんが釣ってこられた大きな鯛や当時将兵の栄養源であっためずらしい椰子ガニに舌づつみを打ちながら、現地民の生活などをつぶさにお聞かせ願い、現地の認識を得るとともに楽しく一夜を過ごす事ができた。
帰途、オーストラリアの首都ブリスベーンを経由し、シドニーに到着する間、機上より見たシドニー湾の眺めはパノラマのように美しい。
そして観光船で夕食をとりながら湾内を一望した素晴らしい夜景は、夕食の美味とともにお伽の国へでも案内されたかのような感覚で陶酔した。

当時ここまでも日本の特殊潜航艇が攻撃したとは、到底考えられない。
オーストラリア人が世界三大夜景のひとつであると自慢するだけの夜景である。
日本より二十倍余りもある広大な国オーストラリアは今が春、どこを訪問しても南半球の美しい花が私共を歓迎してくれる。
そして見渡す限りの広大な農地、人口よりも家畜が多い。
農産物の自由化を求められている日本農業も、付加価値を高めて対抗しなければ到底太刀打ちできない現状をこの目で確かめる事ができた。
豊富な資源を有し、これを輸入して経済成長をとげている日本、これからも日・豪の経済、文化の結びつきは更に深まるであろうと強い印象を与えてくれた。

「百聞は一見にしかず」のことわざどおり、今回の旅を通じて知り得たことは、国際交流の重要性、そして外国の人々は日本の発展を大変高く評価していることである。
こうして異国の地に立って、祖国日本を見るとき、その素晴らしさと日本人の偉大さをあらためて知ることができた旅であった。
これからも、今回の旅で見聞した数々の教訓を地域発展のためにより一層努力する所存です。
終わりに同国関係者の皆さんの親切な歓迎に感謝申し上げるとともに、現地で色々ご協力頂いた平賀臨時代理大使や林領事さん、計画実現のためにお世話下さった事務局長の長谷川聖籠町長さん、そして参加された皆様のご協力に感謝申し上げ、感想文と致します。








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